今年一年を振り返って、どうでしょう。あなたの祈りはかなえられたでしょうか。それとも、ずっと祈っている祈りなのに、今年もかなえられずに終わりそうだという状況でしょうか。両方あると思います。後者については、神は自分のことを忘れてしまっているのではないかと疑いたくなるような時さえあります。でも実際は、神が忘れているのではなく、それ以上に、私たちが、自分がこれまで祈った祈りを忘れていることのほうが多いのではないでしょうか。ザカリヤは、昔は子どもを与えて下さいと祈ったはずですがその過去の祈りを忘れていました。が、神はそれを、時を経てかなえてくださったのです。神の時を待ちましょう。神は必ずそれをかなえてくださいます。神は私たちのどんな小さな祈りをもお忘れにならないからです。 アドベントは神の子イエスのご降誕を待ち望む4週間。今年は特別にコロナの中でこのシーズンを迎えます。イエスキリストは、どん底を何度も味わうこの世界におりてきてくださいました。そして苦しみをともに担ってくださるイエスは、それだけでなく、試練を打ち破り、それを完全に乗り越える力を私たちに与えてくださいます。「万物をご自分に従わせる御力によって」(ピリピ3:21)・・・これが私たちの復活の力なんですね。キリストの復活を信じ、それを信仰によって心に刻む、そして待ち望む、そんな今年のアドベントになればと願います。
カテゴリー: 礼拝メッセージ
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アドベントとは待ち望むこと
羊が逃げたら、99匹を置いてその1匹を探すという聖書の話を聞いて「あほちゃうか」と思った。99匹を置いておくリスクはどうするんやと。でもそれほどに、その一匹をあきらめない方が主イエスなんです。そんなことは人間にはできません。イエスは神だからそれができるし、イエスは途中であきらめず、最後まで捜し歩く神なんです。クリスチャンになっても人は迷います。でもその迷いは、死にたくなるほどの迷いではないということ。人はちゃんと悩むことが大事だし、迷うことも大事。それは、それによってはじめてわかることがあるからです。そのうえで大事な次の一歩が安心して踏み出せるんですね。「ここにいたのか?!」と神は、喜んで私たちを担いで帰ってくれる。「お前の人生には価値がある」と言われ、神の肩に担がれて歩む、それがクリスチャン生活なんです。 神の前ではすべてがバレているということ。いい人のふりをしても無理だし、そんな努力は無駄なことなんだと。それがわかった時、なぜかほっとしたと中三の大嶋師は思ったそうです。ああ知ってるんだと。そして「まじですか?こんな俺でいいんですか。本当に愛してくれるんですか?」と問うた。そして「ありがとうございます。」とその神の愛を受け取ったと。僕らにできることはこの2つしかないのかもしれません。そしてこの問答をし続けることがクリスチャン生活なんですね。
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ユダが12弟子のひとりとして選ばれていながら、ほかの11人と違う道をたどった理由は何だったのか?この12人に対する選びにはどういう意味があり、僕らが11人になるには、どうすればいいのか。それを解く鍵は3つです。1つは「イエスに頼ること」です。クリスチャンとは人生の主導権をイエス・キリストに明け渡し、自分の車の運転席に、自分ではなく、イエスに座っていただくことを決めた人たちです。またパウロは、「イエスキリストのしもべ、パウロ」と、常に自分のことをそのように自己紹介をしましたが、しもべとは奴隷のことです。奴隷とは主人次第でどうにでもなる存在。でも彼は、イエスが彼の仕えてきた最高の主人であり、彼をベストの状態で生かすことのできる方だと知っていたのです。あなたの運転席には今、誰が座っていますか?またあなたは、どのように自己紹介されるでしょうか? 2つ目は、「イエスの贖罪を知ること」です。イエスは、その十字架の贖いを、自分の罪のためになされたものであることを信じる人を、一人残らず、それも信じた瞬間に救い永遠の命を与えるために、この世に来られました。イエスの十字架の死は歴史の事実です。これが自分の罪のためだったと本当に知るなら、僕たちはそれに対し応答をしないわけにはいかないのではないでしょうか。贖罪の業の意味を知ることは、あなたを救いなら漏れさせないための大切な要素です。 そして3つ目が「一人にならないこと」です。「下がれサタン」とペテロはイエスに厳しく叱責されましたが、それは愛の叱責でした。そしてそのあとユダと同じく十字架直前に大失敗をしましたが、それでも主に立ち返るチャンスを最後まで失いませんでした。が、それは共同体から最後まで離れなかったからです。あなたは今、助け合い、励まし合う、愛の共同体につながっているでしょうか。 この文章を読むあなたは、主の選びの中にいます。私たちが今なすべきことは、この選びの意味を知り、それに能動的に応えることです。あなたの運転席をイエスに完全に明け渡しましょう。
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僕たちは、礼拝出席も、「宗教的」な正しい行いの一部として、行っている場合があります。「宗教的」な理由で礼拝に出席するとは、自分が出席しないなら、神やほかの人がどう反応するかということを恐れて出席する場合です。あるいは、出席することでなにか神から受け取るものがあるかと期待して出席する・・・。でも、そこには本当のキリスト教を表すものは何もありません。それとは対照的に、十字架によってもたらされたイエスキリストの新しい現実の自由の中で、礼拝に主席する。この新しい枠組みに、パウロは私たちを招いているのです。 ペテロは、割礼派の圧力に屈して異邦人と一緒に食事をしなくなったことがあり、そのことをパウロに糾弾されました(ガラテヤ2:11-13)。イエスは、パリサイ人が「罪びと」と断じた取税人や遊女たちと食事をすることで、当時のユダヤ人が持っていた「宗教」の壁を取り崩しました。しかし、ペテロは「宗教」に屈し、ふたたび自分と異邦人の間に線を引いたのです。このことをパウロはものすごいテンションで攻撃しました。それは、一旦そのことを許したら、イエスキリストの福音が骨抜きにされてしまうからでした。マルチン・ルターは、この時、その後の福音の全運命は、パウロ一人の肩にかかっていたと言っています。僕たちはそのテンションをもって、宗教という奴隷のくびきに対抗しているでしょうか。 また我々は、この事実に気づいてもすぐさま宗教や自己義認の世界に引き戻される弱さを持っています。このサタンの策略を暴き出す最高の方法は、「宗教化」した自分に気づいた時、それをフフっと笑うことだと、デイビット・ギルという学者はユーモラスな提案しています。この「微笑み」こそが、私たちの教会を刷新し、宗教を排し、キリストにあるいのちを保ち続ける鍵なのではないでしょうか。
- タグ ルカの福音書
「人生の砂漠」のようなところを通らされることは、誰にでもあります。砂漠とは、コントロールのきかない厳しい環境のこと。でも、たとえそんなところに置かれても、絶望しないことです。信仰の先輩たちは皆、それぞれの砂漠を通りました。神はそこで、私たちに祈ることを教えてくださるのです。そして何に渇いているのか、本当に何が必要なのかを教えてくれる。ですから砂漠は「心の窓」と言うことができます。 この砂漠で私たちのすべきことは、まず本当に心の中にあることを、隠さず神に求めることです。期待し、望み続けること。もちろんこれにはリスクが伴います。だから同時に、明け渡すことも必要です。降伏する。サレンダーする。つまり「今」にこだわらない。時と形を神にゆだねるのです。そして3番目にすべきことは「見る」ことです。あなた物語の中におられる、ストーリテラーに目を注ぐのです。理想と現実のギャップはつらく、いつまでもこの両者は出会わないのではないかと思うこともあります。が、祈りをもってそれに向きあい続けるなら、その二つが思いもよらない形で出会い、「ああ、これは神様しかない!」と、感謝と賛美の湧き出るときが必ず訪れます。神はあなたを驚かせようと、今その準備を着々と進めておられます。
「子どもたちを私のところに連れてきなさい。子どものように神の国を受け入れるものでなければ、決してそこに入ることはできません」とイエスは言われました。子どものようになるとはどういうことなんでしょう。皆さんの「子ども」のイメージってどんなものですか。彼らは誰かに頼って生きていますよね。かわいいですね。お父さんを信頼しています。時に生意気。でも親がいないとダメ。ある意味弱肉強食。でも正義感が強い。一方で自己中心・・・要するにはちゃめちゃです。僕らは、もっとはちゃめはでいい!ということなのではないでしょうか。きれいなことを並べるのではなく、本当の心をぶつける。心配事も、悲しみも、失望も、怒りもそのまま持っていく、そんなはちゃめちゃな祈りを求めておられるのです。祈りは霊的鍛錬の場ではありません。ただお父さんの胸に飛び込むことです。 そして僕らは2階建ての1階に住んでいて、神は2階の存在と思ってしまっているところはないでしょうか。だから祈らないのです。愛や奇跡は祈っても生活のことは祈らない。それは、神は2階にいて僕らの小さなことなんてケアしてくれないと思ってしまっているからです。が、それは単なる不信仰です。神はすべてを支配される良いお方という信仰がなくなってしまっている。それは人生にはいいことばかりが起こるわけじゃないという現実があるからですが、このガラスの天井を突き破る唯一の方法が祈りなんです。「私の名によって求めるものは、父がそれを与えてくださいます」と、イエスは何度も私たちに約束しておられます。求めて、それをゆだねる。Pray and surrender just like a child! 整理もつかないはちゃめちゃな祈りを、聖霊は喜んでとりなし、天の父なる神様は、そんなあなたの頭に手を置いて、目を細めてなぜてくださいます。
- タグ マルコの福音書
職場にあって、どうしてこんなことを要求されるのかと悩むことって、誰にもあると思います。こんなことに悩んでいること自体が、クリスチャンとしておかしいんじゃないかと、ダブルで悩むクリスチャンも多いと聞きます。でも、すべてにシャープな答えを持っているのがクリスチャンではないのです。人が悩むことにはクリスチャンでも悩みます。それを祈りに持っていけること、すべてが祈りにつながること・・・これがクリスチャンなのです。そして不当な要求はダメなことばかりではありません。それがあって初めて破れる殻というものもあるからです。不当な要求を出さざるを得ない上司の苦しみに思いをはせるというのも、クリスチャンならではの所作です。 ちっちゃなことに悩んでいる自分を、主は軽蔑されるのではないかという思いも間違っています。ローマ8:23-24「私たちはからだは贖われることを待ち望みながら心の中でうめいています。私たちはこの望みとともに救われたのです。」答えを出せずにうめく、これがクリスチャンです。ダビデのように素直に自分の弱さを主にぶつけ、結果的に力強い人生を歩ませて頂きたいものです。
- タグ Ⅰペテロ
僕らは、神様に何かを求める時、正しい求め方をしているでしょうか。一番悪いのが求めない事。でも、もう一つの間違いは、求めて、そのあと明け渡さないことです。イエスは十字架を前に「この杯を取り除いてください」と祈られましたが、同時に「神のみこころが為されえるように」とも祈りました。Pray and surrender. とにかく結果を委ねることです。僕らは求めてダメだった時のことを心配して、祈りをすぐに取り下げてしまうからです。失敗、恥、失望を恐れるんですね。でもそれでは、「イエスの言っていることが分からない」と言って、イエスの元を去ってしまった多くの弟子たちと、僕たちは何ら変わらないことになります。 そして僕たちは、イエスを理解するのに、肉を持って理解しようとしているでしょうか、それとも霊を持って理解しているでしょうか。「肉によって生まれた者は肉、御霊によって生まれた者は霊」(ヨハネ3:6)とあります。また「文字は人を殺し、御霊は生かす」(Ⅱコリント3:6)ともあります。肉、文字と言う言葉があらわしているのが、理性、知識、学問、研究で、これらはあくまで頭で考えるもの、形有るものです。でも御霊の助けなしでは、イエスを理解することはできないし、人を生かすのはあくまで聖霊、holy spiritです。神は、私たちに語りたくて語りたくて仕方がないのだと教えてくれた友人がいます。それはすべて聖霊の働きです。あなたの人生を豊かにする聖霊の働きを、その語り掛けを、今こそ求めようではありませんか。
- タグ ヨハネの福音書
ザアカイは取税人という、すべてのユダヤ人から嫌われる仕事をし、大の嫌われ者で通っていました。イエスはいちじく桑の木の下から、その木の上にいるザアカイに目を向けて近づかれます。が、イエスは決して、ザアカイが友達もなく、不遇な状態にあるのを見て、それを憐れんで声をかけたのではありません。かえってイエスは、ザアカイが本来持っている彼の中にある最高の部分をみて、それを引き出してあげよう、生かしてあげようという思いで彼に声をかけ、友達になったのです。「この人もアブラハムの子なのだから」と。そして「人が自分の友のためにいのちを捨てる、これよりも大きな愛はない。あなたがたはわたしの友だ。」(ヨハネ15:13,14) と言い、やがてイエスはこのザアカイのためにいのちを捨てます。果たしてザアカイは、このイエスの友情と愛に応えるべく、自分の生き方を変えるのです。 私たちも、人がどんなあわれな状態にあったとしても、その人のあわれさ故に、それを憐れんで友となるのではなく、その人の最高の部分を見、そこに共感し、それを生かすような友となりたいと思います。そのためには、まず私たちは、文字通り捨て身の愛を示してくださった友なるイエスを知り、また私たちのベストを常に見ていて下さる主イエスの目線を知ることがその第一歩。その後で私たちも、イエスが向けてくださった同じ目線を、友にも向けることができるのです。
- タグ ルカの福音書
あなたは、ご自分の仕事場で、つい真剣になりすぎて人とあらぬ摩擦を起こし、それ故に互いが傷ついてしまったということはないですか?この期待に応えたい!あの人を満足させたい!これまで築いた評価を落としたくない!といつもどこか必死になっていませんか。誰にでもそんな部分はあると思いますし、僕自身が、当時はそんな思いの連続でした。その結果、疲れ果てて、余計にヘマをするという負のスパイラルに陥るのです。イエスはそんな僕らに1つの提案をします。仕事場に入った時、「わたしはイエスへの責任を果たすためにここにいるんだ」と思いなさいと。自分の願いを達成することに固執するのではなく、イエスの願う方法に人生のかじを切ってみるのです。そうなると、これまで味わったことのない心のゆとり、余白、フリースペースが生まれるのです。 イエスはきよい天の御国を離れ、わざわざこの薄汚れた世界のただ中に住むためにお出で下さいました。だからイエスは、あなたが、時にどろどろになりへとへとになる仕事の世界に、深い関心を持っておられます。そして、「わたしにつながりなさい。わたしもあなたにつながります」と言われます。日常生活の中でイエスにつながりましょう。聖餐式は、そのための貴重な手段です。それは主の恵みを五感で味わうすばらしいチャンスであり、あなたの内に生きる主イエスが、人を見ることをやめる力を、あなたに与えてくれることでしょう。
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