二人目の迷子
放蕩息子の兄は、弟と同じく迷っていました。「父は出て来て兄をなだめた」とあるからです。兄は、からだは父のそばにありましたが心は離れていました。つまり兄は、神と共にいながら神を少しも知らないという恐ろしい状況にありました。 …
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放蕩息子の兄は、弟と同じく迷っていました。「父は出て来て兄をなだめた」とあるからです。兄は、からだは父のそばにありましたが心は離れていました。つまり兄は、神と共にいながら神を少しも知らないという恐ろしい状況にありました。 …
神を体験するには悔い改めが必要であり、それは我に返ることでもある。その時、世界を見る目が変わるのだ。弟は我に返って、父から離れようとしていた自分に気づいた。これが罪の本質であり、罪とはルールを破ることではないのだ。
ティムケラーは、あなたの善良さがあなたと神との障壁となっていると言います。それは、自分はまじめだし、これからも神なしで大丈夫という思いを起こさせるからで、これが兄息子の状態でした。それは、ただ自由を求めて父を離れた、一見 …
クリスチャンの比呂子さん(今の井上師夫人)から聖書を渡され、当時まだバリバリのやくざだった井上師は、マタイ5:30「右手が汚いなら切り落とせ。一緒にゲヘナに落ちるよりましだ」を読み、初めて自分の汚れた手を見て大泣きした。 …
キリスト教の改心は事実に基づいたもので、具体的には、神が人となり死んで蘇ったという事実に基づきます。実際蘇りのイエスに出会ったという人が当時数え切れないほどいましたが、この外的な証拠をもとに考えるのがその第一歩です。
パウロの伝道戦略は、徹頭徹尾「都市中心」、だからこそ「この地方には私の働くべき場所は残っていない」と断言できたのです。都市は新しい情報にオープンで、人の移動による情報の拡散も期待できる・・・それゆえ都市に福音を植え付けれ …
キリスト教会が迫害されるだけの立場から、たった300年でローマ帝国の公認宗教に上り詰めたのは、1世紀の信徒たちが、みな祭司の精神にあふれていたからだと言われています。祭司の精神とは①貧しい人に心を配り、②深く同情的で、③ …
イエスは全知全能で、何が起こっても驚かれないと我々は考えがちです。しかし、カナンの女性とのやり取りでイエスは「あなたの信仰は立派だ」と驚かれたと書かれており、また百人隊長に対しても同じコメントがありました。つまり、イエス …
イエスの十字架は英雄的ではありませんでしたが、それゆえに完全に英雄的でした。僕らは弱く臆病者ですが、この僕らの弱さを、イエスは完全に受け止めて下さったのです。十字架上で強くなれたのに、あえて弱くなった。そしてイエスの弱さ …
紀元1世紀のクリスチャンが周りに衝撃を与えたのは、彼らのお金の使い方が並外れた寛容さを示したことに、第一の理由があります。次に、彼らの語るイエスキリストの話に他の共同体の人々が耳を傾けたのは、語る人たちの生活に裏付けられ …