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新しい都市@ペンテコステ
使徒2:1-18

ペンテコステには聖霊の火が下りましたが、火の柱、燃える柴など、これまでも神はご自分を火として表わされました。それは神の力強さ、純粋さ、聖さ、美しさを表すと同時に、近づきにくさも示すものでした。「あなたは弱さを持つから神には近づけない」という、隔ての壁の象徴が火だったのです。ですからシナイ山における最初のペンテコステでモーセは岩の間に身を隠したのです。

しかし二番目のペンテコステでは、すべての信徒に聖霊の火が下り、その時以来、我々はそれに動かされる者となりました。ですから我々は、火であり、風である聖霊を感じるはずで、それは自分が恵みによって救われた事実を伝えたいという思いです。火が皆に下ったことで、福音宣教は皆の務めとなったのです。

なぜ初代の教会はこれほどまでに広まったのか。それはイエスが十字架上で火の洗礼を受け、我々の受けるべき報いを全部受けて下さったことにより、愛と律法を同時に満たす世界が始まったことを彼らが理解していたからです。我々も、神が我々のために何を為してくださったか、その御業を語りつつ山を下りるのです。その時、自分のために死んでよみがえられた方のために生きる人生が、我々にも始まります。(Ⅱコリント5:14-15)

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あなたの人生に栄光を
出エジプト記33:1-6,15-23,34:5-8

福音とは神が絶対的に公正な方であり、と同時に絶対的に愛の方だということです。十字架上のイエスにこそ、この御顔にこそ、その絶対的な公正さと愛が満ち満ちておられます。イエスは十字架上で、神から、宇宙的に無視されました。神のみ顔を失ったのです。なぜか。それは私たちがそれを持つためです。それゆえに私たちは今それを持つことが出来るのです。

愛だけの宗教があります。公正さ、きよさだけの宗教もあります。が、そのどちらにも、栄光はない。感動も変容も何もない。イエス以外に栄光はないのです。イエスの御顔、イエスのなされたことを見て、あなたはついに神の栄光を得たのです。待ちに待った、そして捜し求めてきた栄光を。それを見つめる時あなたは崇拝します。

神の栄光を見つめ、それを礼拝する時、あなたも栄光ある者に変えられる。この過激さ、それが福音の過激さなのです。あなたは自分がこれまで思ってきた以上に邪悪ですが、イエスのおかげで、これまで望んで来た以上に愛され、受け入れられている。この福音を見つめましょう。

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神のかたちに造られた私たち
(坂野慧吉師)
創世記1:26-28

創世記1:26には「神は仰せられた。『さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。』」とある。「仰せられた」は三人称単数。しかしそれに続く内容は「われわれ」と、どう見ても複数の内容。これは神が三位一体の関係にあることを表している。そしてイエスはヨハネ17:21「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように」と言っている。子なるイエスの中に父がおられ、父の中に子がいる、この相互内在の関係性が神のかたちとわかる。

また神は男性の助け手として女性を造られた。それも男のあばら骨から。そして1:27-28「神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。」とある。男女、夫婦の関係においてもそう。またエペソ1:10には「時が満ちて計画が実行され、天にあるものも地にあるものも、キリストにあって、一つに集められることです。」とあり、ヘブル1:3には「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。」と。

東京センターチャーチの新しい会堂が月島に与えられた。これは月島の、東京の人達を、イエスに在って一つにするため。何年も祈って来た東京都心での教会が、具体的な場所として与えられ、夢のようだ。共に祈り、賛美し、安否を問いあい、子供たちのために祈る共同体として、更にこの教会が用いられるように祈りたい。

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律法に隠された福音
出エジプト19:2-8,20:1-3,24:7-11

律法の目的は5つあり、1つ目は「私たちを神の愛とする」こと。愛ゆえに民を救い出された神は、その民を至宝とし、溺愛したいから、もっと私に倣ってほしいと言うのです。律法の2つ目の目的は「聖なる国民(くにたみ)とする」ことで、彼らの権力、お金、セックスに関する在り方は、当時ではありえないほど「平等」に大きく舵を切った内容でした。

そして3つ目の目的が「祭司の王国とする」こと。教会ではなぜか人々が仲良くし、愛し合い、お金の取り扱いもリーズナブル。そんな我々の姿を見て、外の人たちが、自分の会社で使う時間やそこで用いる力に福音の影響を受ける。神を紹介し、世にそのような新しい流れを作るのが祭司の集団(教会、イスラエル)の役割なのです。また4つ目は「あなたの心の働きを教える」こと。すべてのdisorderの源は、律法の第一戒「ほかに神を持ってはならない」を犯していることによるのだと、律法は我々に気づかせるのです。

神が我々に律法を与えた5つ目の目的は「イエスの血潮に我々を駆り立てる」こと。当時の契約の調印式は、血を振りかけることによって、約束を破った場合は自分の血が流れるという最悪のケースを演じ、そのあと宴席を持ったのです。その1500年後イエスは「これは私の契約の血だ」と語り、宴席の直後の十字架で、我々の受けるべき呪いを引き受けられました。このイエスの十字架こそが、我々が神に受け入れられる唯一のよりどころなのです。

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ともに食事をしよう
黙示録3:17-20

ハントの描いた「世の光」のイエスは、ランプを手に扉をたたいています。ツタが絡まり、外側にノブのないドアは「開かずの扉」だとわかります。これは自己欺瞞に陥り、自分に嘘をついてきたラオデキア教会の姿でした。経済的には豊かで満足感はあるが、彼らは自分を神から遠ざけ、本当の自分を見ずに来た。これが彼らの「生ぬるさ」の正体で、イエスはそれゆえに「彼らは吐き出したいぐらいにまずい」と言います。

僕らはともすると、外の世界においてはイエスなしでもやっていけるというもう一つの世界観を持ってしまいます。そんな僕らに対し、イエスは「わたしから買いなさい。楽しみも、試練も。なぜなら試練はあなたの信仰を純化し、霊的な識別力を上げるから」と言います。イエスはその愛の豊かさのゆえに私たちを叱り、見捨てずに愛し続けるお方なのです。

祈りには4つの段階があると言います。それは、まず①神に語り掛ける、次に②神がそれを聞く、さらに③神が私たちに語り掛け、最後に④私たちがそれを聞くというもの。でも僕らは祈りはするけど、そんな僕らの祈りを聞いて下さる神が存在するという意識すらない。僕らはイエスと食事をしていないのです。

雨降りは心理模様。がむしゃらに突き進む強行突破型は、ミスした自分に腹を立てます。神の助けはいろんなところにあるのにそんなものは見ない。たとえ祈っても①どまりで、イエスとの食事も自分のペース。「そんなに急ぐなよ。決めつけるなよ。絶望するなよ。私と一緒に、時に雨宿りし、時に雨の中を歩こうよ。ノックに気づいてドアを開けるなら、私はあなたと食事をし、あなたも私と食事をする」これはイエスの、愛するあなたへの誘いであり、また招きなのです。

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復活の証明のかずかず
使徒1:1-11

僕らはどれだけ復活を信じているでしょうか。それが簡単に信じられないのは、世界観が邪魔しているからです。宗教は信じない、社会として好まない、これが今の日本の世界観です。世界観は元々安定したものであって、これに合わないものは無意識のうちに拒絶し、見たことすら気づかず、受け流し、笑い飛ばします。が、これが1世紀に崩れた。パウロの書いたコリント人への第一の手紙には、500人が復活のイエスと出会ったとあり、彼らは死をも恐れぬ集団になっていったのです。パウロは牢獄でアグリッパ王の尋問を受けますが、その時パウロは「私がこれほど大胆になれるのは、復活が真実だったからです。」と答えました。復活は、真実と信じることが出来た時だけあなたを最後まで導くものとなるのです。

またステパノはイエスが最初の昇天者だったことを知らないわけではありませんでした。が、あの石打の刑の時、聖霊が、彼が知的に知っていたことを、現実にしたのです。彼が「父よ、彼らをお許しください」と微笑みながら死んだのは、復活が真実だと知ったからであって、「もし自分に神の微笑みがあるなら、地上のしかめっ面は大したことじゃない。もし私に神の称賛があるなら、地上の非難は取る足りない」と思えたのです。あなたもそんな大胆さを持ちたいと思いませんか。復活を信じなさい。復活はあなたの人生に、これまで経験したことのない深みある挑戦を与えるでしょう。その時、千年後の人類があなたの名を知ることになるかもしれません。

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御霊の本当のしるし・・・平和
ピリピ4:4-12

神の平和とは、否定的な考えを追い出すことではない。事実を直視する中で、考え、感謝し、愛すること。まず考えるのだ。将来が約束されているのに不安なのは、考えていないから。感謝をもって祈れとパウロは言う。結果が出る前にどうして感謝できるのか。神はすべての素材を使って見事な手織りカーペットを造られる方。だから先取りの感謝が可能なのだ。十字架の結末は、どうしようもないことに見えても、それを通して神はあなたをこの上ないすばらしいことに導くという良い例である。

満足した人生を営む方法は、間違ったものを愛さないこと。成功や家族は、あなたのコントロール外。逆に、既に達成した自分を愛する。そして変化するものではなく不変のものを愛する。平和の秘訣は、神から受けるものを愛するのではなく、神ご自身を愛すること。神以外のものを愛するなら、あなたの人生は砂と泥を巻き上げる人生となる。イエスは十字架上で、計り知れない落ち着きのなさを経験され、全ての罰がイエスの上に下った。その傷ついたイエスをいとおしく思う時、それが自分の傷を癒し、平和を与えてくれるのだ。

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Bからの復活そして主の本命へ
ヨハネ20:24-31、申命記9:7

トマスは、他の弟子たちが自分のいない間に復活のイエスと出会ったと聞き、不愉快でした。そんなことは信じたくない思い半分、でもそれ以上に、本当に現れたのならなぜ自分が外されたのか。自分はそんな大切な時に呼んでもらえないほどのB級の弟子なのか、いろんな思いがあり、そんな寂しさからトマスは、「イエスの手の釘穴に自分の指を突っ込まない限り、俺は信じない」という過激な反応をしたのではないでしょうか。

僕たちは多くの場合、「自分はあかん」という思いで生きており、それを跳ね返すための努力をします。確かにネガティブパワーには力がありますが、その先に主の祝福はありません。そんな自己義認ではなく、イエスの義認こそが本物のスタートです。人間は皆罪びとです。でも愛されている。その愛を知り、自分の罪を悔い改める。その時、そのあかんかったところが一転、主に在る多様性として輝くのですね。それが、人まねではなくあなたがあなたとして生かされる道なのです。

将棋の歩だったあなたが、「私の主、私の神」と告白するならその時あなたは金将に生まれ変わり、そのあなたの語る言葉と生き方が、「見ないでイエスを信じる世にも幸いな人たち」を生み出していく。それまではあかんかったあなたが、生まれ変わってそれをする。なんと素晴らしい光景でしょう。でもこれこそが、僕たちクリスチャンが神から託された生き方なのです。あなたは掛け値なしの神の本命。そのnew assignmentに生かされ、主の栄光を表わそうではありませんか。

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力ある神のことば
(小山田格師)
ルカ7:6-9

・「自分はできる」と自分に言い聞かせるなどのポジティブ志向はよく論じられるが、自己暗示はむなしい。罪びとが罪びとである自分に何を語っても、それはただむなしい。

・日本の政治家は小学生でもわかる嘘をついてえらそうにしている。彼らの悔い改めを祈ろう。さばき主はおられるのだから。では人間はどこを向いて人生を生きるべきなのか。

 ・人は祈る。家内安全や、試験の合格や、健康を。アカデミー賞、レコード大賞の発表の瞬間も、皆祈っている。が、彼らはいったい誰に向かって祈るのか。どうせなら祈るべき相手を知って祈りたい。天地万物の創造主、公義と正義の神を知り、祈れるクリスチャンは幸いだ。

 ・聖書は全知全能、万物の支配者たる神からの語り掛けであり、その神が「信じれば罪がゆるされる」と約束しているのがその特徴だ。一番うれしいのは、罪がゆるされること。世界の宗教の中で、罪のゆるしを解くのはキリスト教だけだ。

・みことばを心に蓄えよう。困難に遭ったら、ローマ8:28から、たとえマイナスに見えることもすべてを益とする神を知ろう。試練の中に在るなら、第一コリント10:13から、あらゆる試練をovercomeさせて下さる神に信頼しよう。

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復活のイエスを信じるとは
ヨハネ20:1-10

マリアはイエスの復活を期待して墓に来たわけではなかった。マリアは死んだイエスを探していた。だから生きたイエスに出会ってもピンとこなかったのだ。僕らはこのように、本当の神を探さず、自分が動かせる神、知的優越感を持たせてくれる神を求めている。神は聖霊を通して僕らにたくさんの説明を与えてくれるのに、この神から僕らは逃げてきたのだ。

ギリシア語のeisの英訳はinto。従い「イエスを信じる」の英語は本来believe in Jesusではなくbelieve into Jesusであるべきと英語圏の聖書学者は言う。自分自身をイエスに突っ込むところまで行かないと信じたことにならないと。復活のイエスを信じ切り、突っ込んで預け切る。そうならない限り、承認欲求中毒の僕らは、職場で主の誠実さに生きることはできないのだ。

キリスト教は古代の世界においては周辺文化だったが、それが世界を征服した。どうしてそんなことが起こったのか。そこにイエスが存在したからだ。イエスの墓がないのは、イエスがいたから。彼らはイエスの存在をガンガンに感じ、また信じていた。それもただ信じていたのではなく、そこにbelieve into、突っ込んでいったのだ。

福音の根幹は「神はこれまで僕らが信じてきた以上に聖なるお方、かつ愛なる方であり、それゆえ僕らのために死ななければならなかった」ということ。自分はいい人間でなく、罪びとであり、霊的な奴隷状態から解放されなければならないと。このことがわかるまで十字架は理解できない。が、それが信じられて、なおかつこのモデルを現実に当てはめるなら、その時あなたに革命が起こるだろう。