カテゴリー
礼拝メッセージ

三位一体の神の栄光
ヨハネ17:1-6,20-26

三位一体の神の関係は、互いを褒め合う関係です。三つの位格は永遠の昔から、自分のためではなく他者のために生きて来ました。他者のために生きることこそ最高の幸せ。神はその最高の幸せをすでに持っておられたのです。僕らが造られたのは、神が持っておられるその幸せを分かち合うためで、決して僕らが神を崇めることで神が幸せを得るためではありませんでした。

神においても、他者を幸福にする時にはじめて幸せを得ることができる・・・。この事から、僕らがこの世で幸せを得るには、他者のために尽くす時に初めてそれが可能となると分かります。イエスは「自分を見つけるために自分を捨てよ」と言われましたが、実際自分を捧げるなら、その時僕らは初めてすべての存在のリズムに触れるのです。

僕らはこの宇宙ではよそ者で、何かから切り離されており、その何かを達成するために頑張ります。何かが欠けているが、それが何か今はわからない・・・。イエスの「彼らがわたしと共にいて、私の栄光を見るように」の祈りは、そんな僕らを物事の中心、愛の中心に招き入れる祈りです。物事の核心にようこそ。これがあなたの未来の姿であり、大祭司の祈りのエッセンスなのです。

カテゴリー
礼拝メッセージ

喜びと平安と勝利
ヨハネ16:23-33

イエスの墓が長い間存在しなかったのはご存知ですか?おそらくここだろうと言われ始めたのも死後百年してから。それほど、クリスチャンたちは墓に興味を持たなかったのです。なぜか。それは息子が生きていたからです。死んだ息子の遺品は宝ですが、生きている息子の古着は何の意味も持ちません。生きているイエスの墓は、クリスチャンにとって意味を持たないのです。

クリスチャンはイエスが神の子であることを知っており、その十字架の死と復活も知っています。が、それはサタンも同じです。唯一の違いは、サタンはそれに何の喜びも感じていないこと。クリスチャンとサタンの違いは喜びだけなのです。つまり、「私はクリスチャンです」と言うからには、僕らは、心の深いところに喜びを持っていて当然なのです。

ですから、このクリスチャンならではの喜びを感じつつ、イエスに従順に生きること、さらには、愛された者の様に生きることを目指しましょう。そして神があなたから何かを奪っているように思える時こそ、神の恵みは始まっています。すべてに満ち溢れた神は、あなたにゆすり入れようと、あなたが神に小さな信頼を示すのを、今か今かと待っておられるのです。

カテゴリー
礼拝メッセージ

すべてを圧倒する喜び
ヨハネ16:12-22

あなたは毎朝、いい寝覚めを迎えていますか?聖書は「夕暮れに涙が宿っても朝明けには喜びの叫びがある」と約束していますが、そうとも限らないのが現実です。しかし喜びは神の属性、本質です。神と親しく過ごすなら、神のこのご性質は必ずあなたに伝搬するのです。

喜びと悲しみは重なります。母は生まれ出て来た我が子を見ると、その痛みを忘れます。痛みは消えて無くならないけど、喜びがそれを圧倒するのです。健康か、どんな表情か、誰に似ているかをつぶさに見、とにかく母の心はその子のとりこになります。

もしあなたに喜びが無いとしたら、それは良心に沿った生活ができていないためかもしれません。聖書は、信仰に基づくものでないなら、つまり良心の呵責を一切感じずにできることでないなら、それはあなたにとって罪だと言っています。良心に立ち続けることは、消極的ながら、喜びにとって大切な訓練です。

もう一つの、喜びのための積極的な訓練は、日々のデボーションで示されたことを黙想すること、喜び楽しむことです。個別のポイントでもいいし、キリストの真理、福音全体をレビューすることでもいいでしょう。その時、「その喜びをあなたから奪い去る者はいない」の約束があなたに実現するのです。

カテゴリー
礼拝メッセージ

どんな宗教でも救われますか?
ヨハネ14:1-6、使徒4:12

宗教心の篤い人は神に近づき天国に使づこうと、上へ上へと上って行きます。が、イエス・キリストは下って来られ、僕らに救いの道を示してくださいました。それが十字架です。

「死は一巻の終わり」というのが普通の考えです。でも、愛する人を失ったことで、その人がどんな思いで生き何を託して死んでいったのかを知り、そこに新しい「生」を発見して本当の自分の人生がスタートするということがあります。イエス・キリストの死が弟子たちにもたらした変化は、正にそれでした。

自分が愛されているという実感のない人、愛された経験のない人、自分を好きになれない人は人を愛することができません。「無い袖は振れん」という言葉通り、僕らは愛され、愛を頂いて初めて、人を愛することができる様になるのです。

人生は山あり、谷あり、谷底あり。でも僕らの人生には、歴史の支配者である神の圧倒的な勝利が鳴り響いている。それは僕らが、全能の神、イエス・キリストに愛されているからです。その愛の象徴が十字架なのです。

カテゴリー
礼拝メッセージ

誤りを正していただく喜び
ヨハネ16:1-15

イエスから十字架の死の予告を聞いて、弟子たちは落ち込みました。が、そんな弟子たちに、わたしが居なくなることはあなた方にとっては益だと言われる。それは、御霊が時と空間を超えて働く益、あなたがたの誤りを正す益、そしてあなたの人生をgive upしない人生にしてくれる益だとイエスは言われるのです。

もし今もイエスが生きてエルサレムに居られたら、僕らはイエスに会えなかったでしょう。エルサレムは常に大混雑し、たまに海外旅行されても、そう簡単には近寄れなかったでしょう。そうなる前にイエスは姿を消し、代わりに助け主なる聖霊を送られました。そしてその聖霊は「私はすでに世に勝った」というイエスの言葉を思い起こさせてくれるのです。

罪とは何か。それはイエスを信じないことです。つまりこの世は、神がご自分のひとり子を給うほどに愛しておられるのに、それを信じないこと。でももし神を信じないなら、あなたはもっと恐ろしいものに支配されえるよとイエスは言われます。それはこの世が神に敵対する力に覆われているからです。

イエスは父のものを全部持っておられます。そしてその全てを伝えるのが御霊です。これぞ三位一体の神のお働きであって、神の子イエスと真理の御霊がここで一つになってあなたに働くのです。だから僕らはgive upとは無縁だし「こんなはずではなかった」とほぞ噛むような人生の終わり方をすることは決してないのです。

カテゴリー
礼拝メッセージ

宣教の緊急性
Ⅱコリント5:11-21

カルビン・ハンソン師は、コンプレン師の神学校の学長だった。日本の伝道の難しさと、それでも神が日本を愛しておられるという篤い思いを、学生時代、米国福音自由から最初の宣教師として日本に派遣され、帰国したばかりのハンソン師から直接聞いた。今回、渋谷のスクランブル交差点で信号待ちをし、満員電車に乗り、45階のビルから街を見下ろしながら、ハンソン師の当時の情熱と、忙しい日本人に如何に福音を伝えるかを思いめぐらして来た。

コロナが猛威を振るった3年前のこと。隣家の男性が亡くなった。すると、10歳の孫が、隣家がざわついているのに気づき、よく知っているおじさんが死んだのだと聞いて、「あのおじさんはイエス様を知っているのか」と慌てて聞いた。コンプレン師は、「大丈夫」と答えた。数か月前「具合が悪い。コロナの様だ。入院するので、隣家のよしみで、しばらく家の面倒を見てほしい」という電話を受けた時、たまたまイエスの信仰に導いたのだった。

周りのニーズに気づいて、そのニーズに仕えること。キリストの愛を示していくこと。これは、私たちのミッションではなく、神のミッションだ。それも極めて緊急性の高いミッションである。人生は不確かだが、天国は永遠だ。しかしコンプレン師自身、昨今忙しさゆえにこの機会を逃してきたように思うと言われる。だからみなさんはこの神のミッションに最優先で参加する思いで日々過ごしていただきたいと。

カテゴリー
礼拝メッセージ

絶望しない人生 ヨセフ物語 Part.2
創世記50:15-26

英語にはanother ideaという言葉があります。もう一つの思い、自分が考えるのとは別次元の考えという意味です。僕らはこれが最高と思っていろんなことを決め、物事を進めますが、それをはるかに超えるアイデアがあり、神はそれを実現される。これが歴史の支配者である神のなさり様であり、僕らを愛してやまない神のご人格なのです。

「ここに私を遣わしたのは、あなたがたではなく神なのです」このヨセフのことばは、神は、兄たちの罪や悪事からも、それが悲惨な結末に行き着かないよう守り、かえってそこから世界の祝福という次なるみ業を紡ぎ出される。それらすべてが神の御手の中に在る。私の知る神はそんな神だということです。

ヨセフの最終目的地は、神から頂いたあわれみを人に注ぐこと、そして神が自分を通して為そうとしておられる「全人類の祝福」という遠大なご計画の、一歩でも半歩でも為していくこと。そこに彼の人生目標がありました。ヨセフが神に託されたこの目標は、絶望とは対極のポジションにあり、これこそが彼の、窮すれど絶望せずの秘密だったのです。

カテゴリー
礼拝メッセージ

真理に生きる
ヨハネ15:18-27

僕らが信仰ゆえに裁判の被告の席に立たされるという事は、今の日本にはそうないことですが、真理以外のもののために僕らのことをジャッジしようとする力は存在します。でもそんな場面で、呼べばすぐに来てくださるのが、真理の御霊という弁護人。そしてこの雄弁な弁護人が言葉に窮することはないのです。

証しは小さな殉教です。主イエスはそれをご存じで、僕らが大切な人に福音を語ることや教会にお誘いすることを心から喜んで下さっています。それを知った時、僕らはたとえ、その人が乗って来てくださろうがそうでなかろうが、神からの喜びを感じる。それが真理に生きる味わいなのではないでしょうか。

真理はあなた方を自由にし(ヨハネ8:32)、あなた方に生きる意味を与えます。神のいのち、力、性質があなたの中に入り、そのように生かされる、それがクリスチャンの定義です。この「本領」つまり「イエスの栄光」を存分に表す機会を、神はあなたの人生に備えておられ、このイエスとの切っても切れない関係に生きるのがクリスチャン。そしてその時あなたは、罪を犯さない力を御霊から頂くことができるのです。

カテゴリー
礼拝メッセージ

喜びについて
(平井正治師)
ルカ10:17-20

イエスは、たとえ悪霊が自分の言うことを聞いたとしても、そんなことで喜ぶなと言われた。何かで成功したり、うまくいったりすると、僕らは単純に喜ぶが、若さゆえにうまくいっても、歳をとってから同じことができなくなりそのことで生きる気力を失うとしたらそれも意味がない。

努力することは素晴らしいが、成功したと思っていたが実はそうではなかったというのは悲しい。だから目先の結果に捕われず、主人の喜びを喜びとする人生を求めたい。その喜びは永続するし、人と比べて優位に立ったことで有頂天になるという我々の犯しがちな失敗も避けることができるからである。

イエスは、何より自分の名が天に記されていることを喜べと言われた。それは自分が天の国籍を持ち、自分の居場所が天に用意されている人生、神の栄光を求め、神の喜びを自分の喜びとする、目的地のはっきりした人生のことである。

カテゴリー
礼拝メッセージ

憎まないという選択
ヨハネ15:18-25

ダビデは「ゆえもなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多い」と詩篇に歌っています。神に従う者は理由もなく憎まれる。それは、「人間には生まれながらにして神と人を憎む癖がついている」ことが理由だと、ハイデルベルグ信仰問答集は説明しています。そして僕らは憎まれる時、その相手に対する憎しみが沸き起こるし、同時に神に対しても憎しみを持ちます。どうしてこんな目に遭わせるのですかという思いです。

我々が憎しみに対して憎しみで応じるなら、その時、家庭に、教会に、「世」が入り込んでくるのです。憎しみで応じる限り、そこには何の解決も生まれないけど、愛とあわれみで応じるなら、たとえDVを働く親とでも心が通じ合うのです。でもその愛とあわれみは、僕らからは出てきません。十字架にかかって下さった神の子イエスに倣うとき、初めて僕らは、愛とあわれみを持つことができるのです。

そして主は、どれほど僕らが悲しい思いの中に在っても、あなたは一人じゃないと言ってくださるのです。叩かれた時は、わたしが叩かれたことを思い出せと。あなたが憎まれた時はわたしもその憎しみに身をさらしたし、辱めを受けた時はわたしがその頂点である十字架に死んだことを思い出してほしいと主は言われます。わたしの完璧な愛を思い出してと。「しもべは主人にまさらず」とは、すでに勝利してくださった愛の中に僕らは立たせて頂いているという事です。