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あなたの人生に栄光を
出エジプト記33:1-6,15-23,34:5-8

福音とは神が絶対的に公正な方であり、と同時に絶対的に愛の方だということです。十字架上のイエスにこそ、この御顔にこそ、その絶対的な公正さと愛が満ち満ちておられます。イエスは十字架上で、神から、宇宙的に無視されました。神のみ顔を失ったのです。なぜか。それは私たちがそれを持つためです。それゆえに私たちは今それを持つことが出来るのです。

愛だけの宗教があります。公正さ、きよさだけの宗教もあります。が、そのどちらにも、栄光はない。感動も変容も何もない。イエス以外に栄光はないのです。イエスの御顔、イエスのなされたことを見て、あなたはついに神の栄光を得たのです。待ちに待った、そして捜し求めてきた栄光を。それを見つめる時あなたは崇拝します。

神の栄光を見つめ、それを礼拝する時、あなたも栄光ある者に変えられる。この過激さ、それが福音の過激さなのです。あなたは自分がこれまで思ってきた以上に邪悪ですが、イエスのおかげで、これまで望んで来た以上に愛され、受け入れられている。この福音を見つめましょう。

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律法に隠された福音
出エジプト19:2-8,20:1-3,24:7-11

律法の目的は5つあり、1つ目は「私たちを神の愛とする」こと。愛ゆえに民を救い出された神は、その民を至宝とし、溺愛したいから、もっと私に倣ってほしいと言うのです。律法の2つ目の目的は「聖なる国民(くにたみ)とする」ことで、彼らの権力、お金、セックスに関する在り方は、当時ではありえないほど「平等」に大きく舵を切った内容でした。

そして3つ目の目的が「祭司の王国とする」こと。教会ではなぜか人々が仲良くし、愛し合い、お金の取り扱いもリーズナブル。そんな我々の姿を見て、外の人たちが、自分の会社で使う時間やそこで用いる力に福音の影響を受ける。神を紹介し、世にそのような新しい流れを作るのが祭司の集団(教会、イスラエル)の役割なのです。また4つ目は「あなたの心の働きを教える」こと。すべてのdisorderの源は、律法の第一戒「ほかに神を持ってはならない」を犯していることによるのだと、律法は我々に気づかせるのです。

神が我々に律法を与えた5つ目の目的は「イエスの血潮に我々を駆り立てる」こと。当時の契約の調印式は、血を振りかけることによって、約束を破った場合は自分の血が流れるという最悪のケースを演じ、そのあと宴席を持ったのです。その1500年後イエスは「これは私の契約の血だ」と語り、宴席の直後の十字架で、我々の受けるべき呪いを引き受けられました。このイエスの十字架こそが、我々が神に受け入れられる唯一のよりどころなのです。

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恵みの水
出エジプト17:1–7

僕らは日常生活で、砂漠を経験します。砂漠は全ての水が枯渇している場で、僕らはそういう場に至って初めてまことの水源である神とお会いすることができるのです。でもその前に僕らは、自分のキャリアだったり、家族だったり、預金通帳だったり、いろんなところから一時しのぎの水を飲みます。でもそれらは結果的に渇きを倍増させるのです。

僕たちは、人生が不調だと、神に文句を言います。戦争や自然災害を見た時はなお更です。僕らはあくまで不遜な輩で、出エジプトのイスラエルの民の姿は他人事ではありません。この冒涜に対して神はどう応えられるのか。自ら降りて来られ、放浪者となり、さばきの一撃を受けて下さったのです。

イエスは十字架上で「わたしは渇く」と言われました。それは、僕らが飲めるようになるため、渇きで死なないために、代わりにご自身が渇きで死んでくださったのです。だから「来て飲みなさい」というみことばを聞くなら、飲みましょう。主が何をしてくださったのかを見、それを喜び、味わうなら、あなたはどんな苦難をも乗り越えることが出来るようになります。

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大脱走
出エジプト14:11-31

ファラオは、元奴隷のイスラエル人を取り返すために戦車600両で追いかけてきました。そして「俺たちに仕えろ、さもなくば殺す」と叫びました。実は、僕たちが「自分はこのために生きる」と頑張っている、「これ」も、一歩間違うとそれと同じことを僕らに叫び始めるのです。

それは良い家庭だろうが、経済だろうが、キャリアだろうが、それのために頑張り、仕えてきたすべてのものが、ある時を境に僕らを支配してくるということです。そして、特にそれがうまくいかないとなると、殺しにかかるのです。僕らはそれから逃れなければならず、そのためには神の助けが必要なのです。

これは、あなたの才能を、自分の召使として使いたいか、それとも主人としたいかという問いでもあります。本来、しもべであるはずのこれらのものが、あなたの主人になってしまっていると気づいたら、それらに向かってこう言ってください。「あなたは私の安全ではない。私にはキリストがいる。あなたは私のために死ねないが、キリストは私のために死んだ」と。

主の聖餐はそのためにあるのです。主の受難を覚え、キリストの死を告げ知らせ、主の解放の御業をあなたの現実のものとしてください。そして自由な男女として生きるのです。自由をつかみましょう、主イエスをあなたの主人とすることで。

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子羊の物語
出エジプト12:1-13

過ぎ越しの祭りは、ユダヤ教徒にとって、私たちの神はこういう神ですということを表す一番大切なお祭りでした。それと同様に聖餐式は、キリスト教徒にとって、私たちの神を表す中心的な儀式です。それは「無力な者の血まみれの死」を表す儀式なのです。

あの日イサクは、民族を代表する罪の贖いの献げものになりかけました。が、モリヤの山で、神はご自分の羊を備えて下さいました。出エジプトのあの夜、鴨居と門柱に塗られた子羊の血は、やはり身代わりの血でした。ヘブル人の長男が死なずに済んだのは、代わりに子羊が死んだからです。

そして新約のイエスが登場します。あの過ぎ越しの祭りの夜、たねなしパンと葡萄酒は食卓に並んでいたけれど、子羊はありませんでした。なぜなら、神の子羊が食卓に着いていたからです。主は葡萄酒を注ぎながら、これまでの影の儀式は終わり、本体である私が今日犠牲の献げものとなりますと語りました。

イエスは死ななければならなかったのです。それが神のご計画だったからです。そしてイエスが世の罪を取り除く神の子羊となられたことで、世界の歴史のすべてが、聖書のすべてが、クライマックスを迎えました。私たちはこのクライマックスのイエスに付き従う者たちなのです。

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主とは誰か?
出エジプト7:14-18,10:21-29

神の命令を守らない人に対して、神は何の罰も用意しておられず、そこには自然の成り行きのみがあります。神の命令が自然であれば、それを守らない人の迎える結果も全く自然なのです。神は我々に「わたしより大切なものを作るな」と命じます。たとえば仕事が神より大切になるなら、それを続ける限り、その人は家庭崩壊、からだの崩壊を経験し、最後は塵に帰るからです。「人を赦せ」の命令も同様で、守らなければ、心の崩壊と人間関係の崩壊をきたすのです。

出エジプトの災いのすべては、天地創造(創世記1~2章)の裏返しで、秩序が混沌に帰ったということでした。見た目はエジプト人への神の鉄槌ですが、出エジプトのテーマは「さばきによる救い」で、それと同じことがマタイ27章で起こったのです。十字架の場面でイエスが「わが神、わが神」と叫ばれ、全地が暗くなったのは、神の正義の災いと創造以前の混沌が、すべてイエスの上に降りかかったからでした。が、これこそが究極の出エジプト、エクソダスだったのです。

僕らにはこの「さばかれたさばき主」がいます。だから僕らのこの神への従順には、努力と休息のバランスがあるのです。失敗しても、うまく生きられなくても、騒がなくていい。それは、神がすでにさばかれてくださったから。言い換えると、全ての災いがあなたの救い主の上に降りかかったということです。これこそが、主に在る自然の秩序の回復なのです。そして僕らが最終的に従うべき主とは、僕らの心の設計者、あなたの魂の癒し手です。僕たちは、ここにある大いなるバランスに生かされている者たちなのです。

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救いの主
出エジプト3:1-15

僕たちは人生の回り道をしています。それは間違った仕事、会社、人間関係など。でも実際僕らは、その荒野のど真ん中で神と出会うのです。それも何度も。これがマクロの回り道。つまり、回り道のように見えて、これは霊的現実と出会うためのメインストリートなのです。

もう一つ回り道があり、それは脇道にそれて何かがうまくいかない時、日常のルーティーンから離れ、神の語り掛けを待つこと。思いめぐらし、何かを探求する。モーセが燃える柴を見に行ったのはこれでした。スピリチュアルな出会いを体験するには、この2つの回り道のセットが必要なのです。

荒野に逃れて40年、人生の裏道にいたモーセは、燃える柴の中でイエス・キリストに出会います。モーセは燃える柴としてエジプトに向かいますが、今や僕らも、燃える柴として働くことができるのです。それはイエスの十字架によって、至聖所の幕が裂け、火なる神を内に頂くことができるようになったからです。

あなたは燃える柴ですか。神の美と、神のきよさを頂き、普通でない光に燃えていますか。しかしイエスキリストゆえに、あなたは燃え尽きないでおれるのです。もしあなたがクリスチャンで、燃える柴になりたいと思うなら、まず回り道をしましょう。一人の時間を持ちましょう。そして燃える柴となるよう、時間をかけて熱くなりましょう。

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救いの準備
出エジプト1:17-2:14

出エジプトのテーマは、脱出、解放、自由ですが、モーセはファラオに「神を礼拝するために民を行かせよ」と言いました。生ける神に仕えない限り僕らは罪の奴隷だからです。誰もが何かのために生きていますが、真の解放と自由を得るために必要なことは、主人を持たないことではなく、神に主人となっていただくことなのです。

人生で悪い事が起こると、僕らはつい神に見捨てられたと思ってしまいます。でもその時こそ神は臨在され、その大変な出来事の舞台裏で、僕らの救いのために働いてくださっているのです。イエスの十字架がまさにそれでした。「なぜお見捨てになったのですか」の祈りの裏で、全ての人に通用するall mightyの救いが準備されていたのです。

当時の助産婦は子のない女性の仕事でした。が、彼女らの創造的不服従という神のための働きに対し、神は「家を栄えさせた」、つまり子を与えられたとわかります。神は名もなき者、排除されている者を用いられるのです。同じようにイエスご自身が力によって救いを成し遂げられたのではなく、その救いは権力を放棄することで成し遂げた救いでした。

ですから僕らも、自分の奉仕ゆえにではなく、このイエスのなされた奉仕のゆえに救ってくださいと祈りましょう。「ダメな自分ですが、イエスのなさったことのゆえに私を受け入れて下さい」が僕らの捧げるべき祈りです。イエスを見、その上で出て行くなら疲れることはありません。モーセの指し示す方をしっかり見て、世の正義のために働きましょう。

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雲の柱、火の柱に導かれて
(高見澤栄子師)
出エジプト13:20-22

火の柱、雲の柱に導かれて始めた「モンゴルキッズの家」プロジェクト。首都ウランバートルの下水道に生活する4500人のマンホールキッズたちを救いたい。23年前に高見澤栄子師に与えられたこの思いは、止められることはありませんでした。火の柱、雲の柱に導かれて歩むイスラエルの民の歩みが、ファラオの軍隊にも、紅海にも止められなかったように。それは、彼らには、神の大切なメッセージが託されていたからでした。

彼らは鴨井と門柱に小羊の血を塗ったことで災いが通り過ぎるという経験をした民でした。これはイエスの十字架の福音のプロトタイプです。その後彼らは、昼でも夜でも、神が進めと言われる時に進みました。その時彼らは、彼らを導く雲の柱の一番上、神を仰いで進んだのです。今の時代、私達はこの神の福音のメッセージを、そして「この最も小さな者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのです」のイエスのメッセージを、地の果てにまで運ぶ役割を担っているのです。