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礼拝メッセージ

Bからの復活そして主の本命へ
ヨハネ20:24-31、申命記9:7

トマスは、他の弟子たちが自分のいない間に復活のイエスと出会ったと聞き、不愉快でした。そんなことは信じたくない思い半分、でもそれ以上に、本当に現れたのならなぜ自分が外されたのか。自分はそんな大切な時に呼んでもらえないほどのB級の弟子なのか、いろんな思いがあり、そんな寂しさからトマスは、「イエスの手の釘穴に自分の指を突っ込まない限り、俺は信じない」という過激な反応をしたのではないでしょうか。

僕たちは多くの場合、「自分はあかん」という思いで生きており、それを跳ね返すための努力をします。確かにネガティブパワーには力がありますが、その先に主の祝福はありません。そんな自己義認ではなく、イエスの義認こそが本物のスタートです。人間は皆罪びとです。でも愛されている。その愛を知り、自分の罪を悔い改める。その時、そのあかんかったところが一転、主に在る多様性として輝くのですね。それが、人まねではなくあなたがあなたとして生かされる道なのです。

将棋の歩だったあなたが、「私の主、私の神」と告白するならその時あなたは金将に生まれ変わり、そのあなたの語る言葉と生き方が、「見ないでイエスを信じる世にも幸いな人たち」を生み出していく。それまではあかんかったあなたが、生まれ変わってそれをする。なんと素晴らしい光景でしょう。でもこれこそが、僕たちクリスチャンが神から託された生き方なのです。あなたは掛け値なしの神の本命。そのnew assignmentに生かされ、主の栄光を表わそうではありませんか。

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復活のイエスを信じるとは
ヨハネ20:1-10

マリアはイエスの復活を期待して墓に来たわけではなかった。マリアは死んだイエスを探していた。だから生きたイエスに出会ってもピンとこなかったのだ。僕らはこのように、本当の神を探さず、自分が動かせる神、知的優越感を持たせてくれる神を求めている。神は聖霊を通して僕らにたくさんの説明を与えてくれるのに、この神から僕らは逃げてきたのだ。

ギリシア語のeisの英訳はinto。従い「イエスを信じる」の英語は本来believe in Jesusではなくbelieve into Jesusであるべきと英語圏の聖書学者は言う。自分自身をイエスに突っ込むところまで行かないと信じたことにならないと。復活のイエスを信じ切り、突っ込んで預け切る。そうならない限り、承認欲求中毒の僕らは、職場で主の誠実さに生きることはできないのだ。

キリスト教は古代の世界においては周辺文化だったが、それが世界を征服した。どうしてそんなことが起こったのか。そこにイエスが存在したからだ。イエスの墓がないのは、イエスがいたから。彼らはイエスの存在をガンガンに感じ、また信じていた。それもただ信じていたのではなく、そこにbelieve into、突っ込んでいったのだ。

福音の根幹は「神はこれまで僕らが信じてきた以上に聖なるお方、かつ愛なる方であり、それゆえ僕らのために死ななければならなかった」ということ。自分はいい人間でなく、罪びとであり、霊的な奴隷状態から解放されなければならないと。このことがわかるまで十字架は理解できない。が、それが信じられて、なおかつこのモデルを現実に当てはめるなら、その時あなたに革命が起こるだろう。

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あなたは新しく生まれなければならない
ヨハネ19:38–42,3:1-8

罪とは、自己中心と自己陶酔。自分が自分の救世主になるには、徹底的なワルになるか、徹底した善良さに徹するかの2通り。前者はわかりやすい例だが、後者は「こんなええ人間を神が祝福しないはずがない」という独善性からくる悪だ。新しく生まれるとは、このエゴ、プライド、自己満足に死ぬことなのだ。

人が自分のパフォーマンスで自分の価値を決める限り、うまく行く時には、大胆さは加わるが謙遜差は失われる。逆にうまく行かない時、謙虚にはなるが自信もない。うまく行かないことによる落胆があるからだ。その結果、有頂天と落ち込みの間を行ったり来たりの人生となるのである。

19章でイエスの亡骸を総督ピラトに受け取りに行ったニコデモには、大胆さと謙遜さのユニークな組み合わせがあった。これぞ福音のなせる業であり、それは、あなたはこれまで自分が信じてきた以上に愛されており、また同時に罪深いということを福音によって知るからである。

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彼らはわたしの衣服を分けた
ヨハネ19:23–27

イエスは裸にされ、辱めを受けるために来られました。それは、僕たちが服を着れるようになるためだったのです。十字架上の死という事実は、イエスの「地獄の底から私はあなたを愛している」という声になって響きます。その時あなたは、新しいアイデンティティーに生き始めるのです。

僕らは、神の臨在が必要なのに、一方で神から離れて好きなように生きたいという願いを持っています。が、その希望通り神から離されるというのは、一番恐ろしい神の罰なのです。それはイエスが十字架で経験されたことでした。イエスは、「わが神、わが神…」と叫ばれたとき、本来僕たちに起こって当然のことを、僕らに代わって経験されたのです。

イエス・キリストは「いい家も、悪い家もない。全てがフラットで、どこから来たかではなく、大事なのはどこへ行くか、今、この時間以降、どこに向かっているのかだけだ」とはっきり宣言しておられます。

僕たち教会家族は、血のつながった家族より親密な関係です。そして互いの人生のもっと多くの時間をそこに費やす必要があります。それが、僕らが変わること、共に親に似ること、つまりキリストらしさを共有する条件なのです。

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イエスの渇き
ヨハネ19:16-30

イエスはなぜ十字架にかかられたのか?それは地獄を見るためだったのです。からだの渇きも、魂の渇きも、最後は僕たちを死に追いやります。そして魂の渇きは、神以外のものを心の中心におくところに発生する現象です。主は十字架上で「わたしは渇く」と言われました。苦痛や痛みを一切語られなかった主が、渇きだけを口にしたのは、それが地獄を経験したことの証しだったのです。

その後イエスは「完了した」と言われましたが、これは「やり遂げた」という勝利宣言でした。主は僕たちが神のもとに行くのに必要なことのすべてをやり終えられました。ですから完成された愛を受け取ることだけが、僕らの今なすべきこと。にもかかわらず僕らは、キリストの業を今も完成させようとしているのです。だからどこかで優越感を得ようするし、自分の重要性を確認しようとする。それはキリストのみ業が「完成済み」ということを知らないからなのです。

恋に夢中、仕事の虫、あるいは人とのかかわりにまい進するなど、中毒症状はいろいろです。が、それらはすべて、自分を完成したいがための行動で、人は常に自分の価値を証明したいのです。また十字架のもとでは人間関係が劇的に変わります。以前のように自分を悩ませるものは何も無く、自分を支配するものは無いというのが救われた者たちの状態です。2024年は、更なる信仰の深化と十字架理解を通し、そのような劇的変化を経験する年としたいものです。

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私たちはこの方の栄光を見た
(齊藤耕師)
ヨハネ1:14-18

「三位一体がわからないこと、キリスト教会の最大の弱点はここにある」と、20年前、当時の浦和教会主任牧師の坂野師が、説教で語っておられたと言う。そこに愛の原点があるからである。「神は愛なり」(Ⅰヨハネ4:8,16)とあるが、一体(一つの神)だけでは、この真理は説明できない。これを説明するためには三位(或いは少なくとも二位以上)の神がおられ、そこに初めて愛の関係性が生まれるのである。

互いのために自分がある、自分以上に相手を大切にする、互いの栄光が現れる中で互いの独自性が輝く、そんな交わりが三位一体の神の本質なのだ。三位という別々の関係にありながら、そこには矛盾も対立もなく、愛の関係のみが存在する。ここに神の本質があるのだ。

浦和教会は交わりをテーマにしてきた。その真の意味、そしてその究極は、礼拝にある。賛美を通して我々は一つになるし、同じ神を見上げるときに我々は、真の一致を体験するのである。TCCは会堂のない教会だが、まずは礼拝を大切にすることで「キリストの愛に満たされた交わりの教会」を目指していきたい。

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イエスとペテロの食事
ヨハネ21:1-19

復活のイエスがガリラヤ湖で漁をする弟子たちに出会ったときのメンバーは7人。彼らは性格的にも、モノの考え方も、ばらばらの7人でした。疑り深いトマスと、何でもすぐに信じてしまうナタナエル。考えて分析しそれでも動かないヨハネと、とにかく走り出してから考えるペテロ。でもそんなバラバラな彼らをも、一つの船に乗せて一つの働きに送り出す方がイエスなのです。僕らの教会にも、主はそんな一致を与え、超自然の共同体にしようとしておられます。

ペテロは11人の中で、一番熱い弟子でした。が、一番自分のことをわかっていない弟子でもありました。弟子たちは全員イエスを裏切りました。が、ペテロの失敗は一番深刻で、悲惨でした。あれだけ大見えを切った末に犯した裏切り、3回の否認。ペテロの壊れ方は目を覆うほどでした。そんなペテロにイエスは言います。「あなたの失敗を丸ごとわたしの恵みの中に置きなさい。そこのことであなたは偉大なリーダー、誰よりも優れた羊飼いになれるから」と。

イエスはペテロに「あなたは両手を伸ばして、神の栄光を表しなさい」とも言いました。それは、一つは十字架を表し、もう一つは、無防備な状態に自分をおいて隣人を愛せよということでした。まさにイエスがされたように。ペテロにはその準備はできていました。ルカ5章でイエスの大漁を経験したときペテロは「私から離れて下さい」と叫びましたが、今回153匹の魚を見て、彼は服を着たまま水に飛び込んでイエスのところまで泳いだからです。僕らも自分の壊れた部分を示された時、「私から離れて下さい」ではなく、ペテロのようにがむしゃらにイエスに近づき、真の癒しを頂く者になりたいと思います。

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あなたには力がない
ヨハネ18:33-38,19:8-11

元チェコスロバキア大統領ハヴェル氏は、ご自身の経験から、政治家の仕事ほど、自分の心のむなしさをカバーし自己肯定感を与えてくれるものはないと言います。すべての人間はその心が空っぽで、何かをすることでその虚しさが、意義と、名誉と、栄光で満たされることを必要としている。だからその虚しさを持ったまま政治権力に近づくと、その虚しさを権力で埋めることになる。ここに権力が乱用される理由があると言うのです。

それは決して、パパとママに愛されなかった心の貧困者が政権を取ったら、権力にどん欲になるといういうのはない。すべての人の心が空しいのです。イエスの望みは、イエスがその人のために為されたことを知り、それによって心満たされた人が政界に出て、イエスのように自らの権力を手放す人間になること。その時こそどんどんその権力を行使してほしいと。

政治だけではなく、イエスが為したことを知り、それによって心満たされた者は誰でも、最早、性欲というものに対してもわがままでなくあくまで忠実になれ、またお金というものに対してもわがままでなくあくまで寛大になれます。この忠実、寛大を主の恵みにより兼ね備えた人こそが、自分の賜物、手のわざ、職場を通して、世界を変えて行くことができるのです。

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裏切られてもなお愛し
ヨハネ18:12-27

あなたの人生における最悪の出来事とは何でしょう。ペテロは炭火の横で「あなたもあの人の弟子ではないの?」と聞かれ、「違う」とイエスの弟子であることを否認します。ところが復活のイエスはご自分で炭火を起こし、あの時わたしはあなたのそばにいたとペテロに伝えられるのです。そして「わたしの羊を飼いなさい」とまことの弟子の召命を与えます。主はあの人生最悪の場面にもあなたと共におられ、愛といつくしみのまなざしであなたを見つめておられたのです。

4つの福音書全部に、このペテロの裏切りは描かれています。それは、それが大切な出来事であり、彼の信仰の原点がそこにあったからです。ペテロはやがてキリスト教会のトップとなりますが、この恥ずべき自分の失敗ストーリーを聖書から削除せず、逆に、自分の人生を語る時には、必ずこれを語れと指示します。彼は、自分の罪、恐れ、愚かさに勝ったのはこの方だ、人類の罪に完全勝利して下さったのはこの方だと、告げざるを得なかったのです。

ペテロはイエスを守ろうと、マルコスという男の耳を切り落とします。「耳を切れ」などイエスは言われなかったのに。またそのあとも、のこのこついて行って大失敗を演じます。「この人たちを去らせよ」が主の御心だったのに。ペテロはイエスのお考えを無視し、自分のおせっかいの性質ゆえに、罪を犯し、自分を追い詰めるのです。僕らも同じく、しばしば神のご命令よりはるかに多くのことをしようとします。たとえ勇気がないように見える道であっても、御心は何かを考え、真の勇気をもって選ぶ者でありたいと思います。

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わたしがそれです
ヨハネ18:1-11

僕らは、自分よりダントツに優れた人のそばに長くいるのはしんどいし、その差があまりに大きいと崩れ落ちてしまう、そんな弱さを持つ者たちです。相手が人間であってそうなら、神の前ではどうなるのでしょう。イエスが、「わたしはある」との神宣言をひとこと口にしただけでローマ帝国の正規軍がのけぞって倒れたとあります。聖書は、人は神の前には立てないと何度も語ります。なら、最後のさばきの場で、聖なる、聖なる、聖なる神を前にして、僕らはいったいどうなるのでしょうか。

だいたい、最後のさばきというものはあるのでしょうか。全人類の持つこの普遍的な問いに対する答えは3つです。世俗主義は「そんなもんはないから、好き勝手に生きろ」と言い、伝統的な宗教は「あるに決まっている。だからちゃんと生きろ」と言います。でも福音はこう言います。「さばきの日は来るけど、さばき主自身がやって来て、そのさばきを受けてくださった。だからあなたは裁かれず、無罪だ。あなたは神の前に立てる」と。これがイエスを信じる私たちへの最終的な判決文なのです。

人の子イエスの語った「わたしがそれだ」「わたしはある」の神宣言は、人類史上最大の宣言でした。また、最後のさばきがあるとしたら僕らはそこに立てるのかという問いは、おそらく最大の問いでしょう。またそれに対する最大の解決が、裁判官であるイエスが僕らの身代わりとなり、さばかれて下さったということ。そして今、僕らには、この恵みをまだ知らない人たちにこのことを伝えるという、人類史上最大の使命が与えられているのです。