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センターチャーチ

「福音」についておさらい #2(本文 P54〜)

【AAA】福音はすべてに影響を与える……Iコリント15:1-9、ローマ12:1

a)落胆と憂鬱:福音は自分を他人の下す表面的な評価から解放し喜んで悔い改めに応ずるものに変える。

b)愛と関係性:福音がなければ、自分の必要性を確認するために人の愛を求めるという共依存の関係となり、人間関係は自己中心的な、人を利用する手段となる。が、福音の中ではたとえ利益がなくとも人に寄り添える。

c)性:キリストの自己放棄が、性の結びつきにも反映される。そのような自己放棄的な真の男女の性の結びつきは、法的・社会的・人間的結びつきを代表し、永遠の結婚関係においてのみ成立する関係である。

d)家族:我々は父を知ることにより、親の期待という縛りから解放される。極端な依頼・敵意からも解放される。

e)自己抑制:耐え忍ぶことは無駄ではないと教えてくれる (IIテモテ2:12)

f)他国人、異文化:恵みによって救われた以上、従来の自己義認によるプライドや、文化の優劣をつけたい気持から解放される。

g)あかし:神の恵みにより、あざけりや、傷つくことへの心配から解放される。

h)人の権威:イエスを主と告白することは、カエサルはあなたの主ではないということと同義である。

i)罪とセルフイメージ:「自分を赦せない」という気持ちは自分が中心にあるから起こるのであり、神のめぐみが中心に来るとき、自分や他人が自分に対して作った間違ったセルフイメージから解放される。

j)喜びとユーモア:最終的な神の勝利を知るなら、厭世主義・悲観主義から解放される。

k)貧富・階級に対する態度:福音は、貧しい人を見たときにも自らを謙遜にし、モラル的な優越感から解放する。なぜなら自分はもともと破産者であったものが、キリストの寛大さによって救われただけと知っており、「富む人は草の花の様に過ぎ去る」(ヤコ1:9-10)からだ。またパウロはピレモンに、元奴隷のオネシモを、私を迎えるように迎えよと書き送った(ピレ16)。その後2000年続く奴隷制すら、すでにこの段階で福音により骨抜きにされたのだ。

考えよう⇒あなたが「福音の影響」を必要と考える分野は、どの分野ですか。

【BBB】「新しくされること」の兆候

a)人々が、福音のすべてを理解したわけではないと知りつつも、この福音を携えた生活を始める決断をする時、この信仰復興が始まり、大きなエネルギーが生まれるのだ。その教会は、義認の基礎を自らの「きよさ」に置かない。そして教会外の人たちは、その共同体の刷新された生活に魅力を感じるようになる。それがキリスト無き自分達の社会とはまったく別の、美しい社会だからだ。

b)この、目に見える変化は、名ばかりの教会員たちの刷新から始まる。福音や新生を初めて知り、キリストと共なる生活に入って行くのだ。古参の教会員が目を輝かせてキリストを語りはじめ、真新しい悔い改めを語るようになる。そして、この初期の刷新を経験した人たちが他の教会員にも影響を与え、同様の刷新に向かわせる。これまで欲や、やっかみや、怒りや、退屈の中で生きてきた者たちが、神のリアリティーと愛の確かさを心の中で知る者となる。そして内なる罪を認め、悔い改めに導かれ、その中で、 愛なる神のみそばに居ることを確信するようになる。罪の負債が大きければ大きいほど、キリストの支払った代償の大きさも、さらなる驚きとしてその人に迫る。そしてその結果として、いよいよ謙遜さと大胆さがその人に与えられるのだ。

c)もちろん、ノンクリスチャンの中にも、美しく変えられたクリスチャンの捧げる真の礼拝に魅力を感じ、悔い改める者が現われる。キリスト者たちはこのことの晴れやかな証人となる。人を責めることも、階級差別や偏見もない礼拝に自信を持ち、積極的に友人を礼拝に誘うようになり、この健全で継続的な、そしてどこかドラマチックなこの悔い改めが、時として驚くほどの教会成長を生むのである。各教会の強みは、この「福音による刷新」の中で互いにつなぎ合わされ、さほどの強みでもなく「二番手」と思われていた要素も、この刷新の中で鼓舞されるのだ。

d)この変化はまず、礼拝の「活気」に反映される。福音が戻り、神のきよさと愛がリアルで心とらえるも のとなったことにより、礼拝の中に新たな神のリアリティーが生まれるのだ。伝統か新しいスタイルかを問うのでなく、感情に訴えるかフォーマルかを問うのでもない、従来の基準とは違う全く新しい礼拝となる。それは明らかな、そしてだれもが感じる、神の超越性のいきわたった礼拝であり、信徒を啓発し、未信者をもひきつけるものである。

e)福音により新しくされた教会は、謙遜な「愛された人たち」を生む。意見の違う人に対し尊大になったり軽蔑したりせず、他人の評価も気にならない。よってすべての信徒が自然体の伝道者となる。刷新の時は教会が成長する時でもある。転籍や教会ショッピングの結果でなく、悔い改めによる成長だ。また貧困層に対するミニストリーにも携わることになる。自らが、何も持たない霊的貧困状態から救っていただいた者達なのだから。

f)この、教会内と外に向けての変化は、結果的に大いなる文化的な影響力を発揮する。新しくされた教会員は、しばしば芸術、ビジネス、政治、メディア、学究等、あらゆる分野で、深く、生き生きとした、また健全なインパクトを及ぼすようになる。真の宗教は個人の変革に留まらず、そのクリスチャンのいる町にも広範な影響を及ぼし、内なる平和ときよさで満たす働きをする。態度においても、関係においても、変革をもたらすのだ。

考えよう⇒あなたの教会にリバイバルを起こすために、あなたにできることは何でしょう。

【CCC】福音・gospel(p13〜83)のまとめ 

何よりバランスが大切であり、そのバランスをもたらすのがミドルウエア、センターチャーチの役目である。地はのろわれ、それ故に我々は仕事や人間関係で苦労をするが、神との関係回復と、そういった危険と呪いからの脱却が福音の目的であり、それは天国への逃避ではない。この地でもたらされるべき変革だ。そしてこれが「福音によって新しくされること」の中身である。4つの章の第3章にある「福音のエッセンス」を知ることの大切さ、そしてそれが宗教にならぬよう、偶像崇拝に陥らぬよう語り続けることに大切さを知る。しかし、「福音によって新しくされること」は、それに備えることはできても、自らそれをもたらすことはできない。それは神が為されるものだからである。これまで何でも能力と頑張りでコントロールしてきた我々にとっては残念なことであり、刷新が起こらない時には落胆するかもしれない。 が、実はそうであってはならないとティムケラーは言う。確かに「涙とともに種を蒔く者は」(詩126:5)とあるように、雨のない時にも涙と共に忠実に種を蒔き、自ら水をまき続けるのが、ガーデニングであり、牧会伝道なのだ。最初は収穫がほとんどないだろう。土地の状況や天気に常に左右され、コントロール外の要素が多く含まれているのも事実だ。が、それでも最終的な収穫があることを詩人は知っている。どれほど長く待つことになったとしても、たとえ涙と共に蒔くことが続いたとしても、福音によって 新しくされ「喜び叫んで帰って来る」ときが来るのだ。そのビジョンを持って、福音の種を、都市に、愛するわが町に、蒔き続けたい。 

補足……【DDD】「ハードウエア」「ミドルウエア」「ソフトウエア」「教義的な土台」を「ハードウエア」と呼び、「ミニストリープログラム」を「ソフトウエア」と呼ぶなら、その 2つの世界の間にある「ミドルウエア」に深みがあると気づいたとティムケラーは言う。しかし、多くの牧師は、自分の信じる教義や文化的コンテキストとは違うプログラムを選んでいる現実がある。いわゆる人気のあるやり方を外から持って来て、教会の神学とも背景とも合わないものを採用してい るわけだが、その場合、実りは期待できない。教会内に変化は生まれないし、外の人たちに対してもアウトリーチできないのだ。それは福音にも文化にも照らした内容になっていないからだ。 

ミドルウエアとは、ハードとオペレーティングシステムの間にあるもので、コンピューターユーザーは普通に使っている。これと同様に、「教義的な土台」と「ミニストリープログラム」の間で、どういう福音を、都市の特定の文化や、今という歴史的切り口に根付かせるかを考えるのだ。これが大切であることが 分かれば、それを橋渡しに、ミニストリーの形も決まってくる。 

考えよう⇒福音と文化をどちらも外さないことが、伝道の成功の秘訣だとティムケラーは言っています が、あなたの教会ではこれまでそれができていましたか。できていなかったとしたら、それはどのようなズレでしたか。

【EEE】ミドルウエアの中身としての「神学的ビジョン」について「神学的ビジョン」とは、「聖書から来る教義的な土台を、特定の時と場面で如何に扱うか」をイメージした大まかな方向付けだ。これは、「今この時の文化」と「生活」と「ミニストリー」と「ミッション」を総合的に考えた『福音についての再表現・言い直し』」のことである。 

ミドルウエアには次の3つの一般的性質がある。ミドルウエア(神学的ビジョン)は、もとよりむずかしく、とっつきにくいものだが、牧師には必要で あり、特に都会で働く牧師にとっては、教義的な土台とミニストリープログラムの連結は重要課題。このミドルウエアの存在を知り、それを有効活用するなら、多岐にわたる都会でのミニストリープログラムを生み出し得る。ミドルウエアは他の教会にも伝達可能であり、他の教会もそれを受けて応用可能である。ミドルウエアは教会を超える。教会づくりをリードするのみならず、多くのミニストリーを束ね得る力を持つ。 

参考⇒ウイキペディアの「ミドルウエア」の解説、『ミドルウェア(英:Middleware)は、コンピュータの分野で、コンピュータの基本的な制御を行うオペレーティングシステム(OS)と、各業務処理を行うアプリケーションソフトウェアとの中間に入る広義のソフトウェアのこと。通常はオペレーティングシステムの機能の拡張、あるいはアプリケーションソフトウェアの汎用的(共通的)な機能を集めたものである。アプリケーションソフトウェアはミドルウェアに要求を出すと、ミドルウェアがオペレーティン グシステムに必要な要求を出し、結果をアプリケーションソフトウェアに返す。あるいはミドルウェア自体が各アプリケーションソフトウェアの起動・停止・監視などを含めた制御を行う。』 

【FFF】福音とは 

宗教 福音 

私は従う。だから私は受け入れられる。 私は受け入れられている。だから私は従う。 

動機は、恐れと不安 動機はよろこび 

神に「何か」を求めるために、神に従う 神を喜び、神に似るために従う。そして神自身を求める。 

生活でなにかうまくいかないと、神か自分に対して怒る。それは、良い 人は良い人生を送れるはずと信じているから。 

何かがうまくいかないと、もがくが、神が自分を訓練するために為してお られること、また試練の中にも父の愛があることを知っている。 

批判を受けたら、怒るか、困惑する。なぜなら、自分がよい人であることは、自分にとって大切なことだから。ゆえに、セルフイメージが壊れる ことを何より恐れる。 

批判を受けたら、もがくが、自分が自分をよい人と思うことは重要ではないこと、また自分のアイデンティティーは自分のパフォーマンスによらず、キリストにある神の愛によることを知っている。 

自分の祈りは嘆願が主な内容で、求めるときは熱くなる。祈りの主な目的は、環境をコントロールすることである。 

私の祈りは、賛美と礼拝を惜しみなくささげること。またその目的は神との交わりである。 

自己像は2つの間を行ったり来たりしている。つまり自分の標準に達している時は自信がある。しかしその時はプライドが生まれ、落胆している人に同情できない。標準に達しない時は謙遜だが、自信がなく、自分を敗者だと思う。 

自己像は、自分の道徳的な達成度に左右されない。一時は罪と迷いの中にあった自分が、今は受け入れられたからだ。主イエスが死ななければならないほど私は悪かったが、主が身代わりに死ぬほどに私は愛された。このことは自分を、深い謙遜と深い自信に導く。 

私のアイデンティティーと自己価値は、どれほど一生懸命に働くか、どれ ほど自分が道徳的かによって決まる。だから私から見て、怠惰か、非 道徳的な人を私は見下す。他人を見下し、自分は他人より優れている と思う。 

私のアイデンティティーと自己価値は、私を含めて自分の敵のために死なれた方に、その中心を置く。ただ100%の恵みによって、今の私がある。だから、私と違うものを信じたり、他の行いをしている人を見ても私は低く見ない。議論して勝ちたいという欲求はない。 

私の家系や、能力、過去の道徳的な行い、社会的地位が偶像化しており、無くてはならないものになっている。それが私の希望、生きる意味、 幸せ、安全であり、私が神と信じるものはそれらを代表するから。 

人生には良いものがたくさんある。家族、仕事……と。しかし絶対的なものはなく、それらは決してなくてはならないものではない。だから、それらがなくなったとしても、そこからくる不安、苦々しさ、絶望も、私への影 響力において限界がある。