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センターチャーチ

「福音の文脈化」についてのおさらい #1(本文 P89〜)

【AAA】 なぜ文脈化が必要か? 

1)文脈化の不可欠性 

a) 福音の真理は相変わらず一つだが、この真理についての「文化を超越した伝え方」などは存在しない。伝えるためには、対象の文化への適合が不可欠だ。福音の真理は決して文化の産物ではなく、すべての人間文化を審判する立場にある。福音は文化より上に位置づけられるべきものだ。しかし、もし「文化を伴わない福音提示はない」という真理を忘れるなら、伝え方は一つと勘違いし、硬直的となり、保守的となる。逆に、もし「一つの真の福音しかない」という真理を忘れるなら、相対主義となり、舵の定まらないリベラルに陥る。 

b) 言葉は(何語にせよ)文化満載である。翻訳は似た言葉への単純な置き換えであり、真の同義語は存在しない。(聖書の神と日本語の神の違いなど)本当のヤーウエのニュアンスを伝えるには説明を要し、場合によっては「神」以外の語がふさわしくなる。一つの語を選ぶと同時に文脈化ははじまり、ある民族には受け入れられるが、他の民族には逆となる。 

c) 退屈な説教は、長すぎたり短すぎたりも関係するが、「時間」も文化だ。また早い遅いの感覚も皆違う。混合文化の中で、だれに標準を合わせるかは注意が必要だ。どんなたとえや例話を用いるかも大切な要素だ。イエスの例話はいつも生活体験に基づくものだった。ゆえに例話は、あるグループには近づく手段となるが、他のグループには疎外感を与える作用もする。全ての人を包み込む説教の仕方があるという「妄想」は慎まねばならない。 

d) 文脈化は言語、語彙、感情表現、例話の問題だけではなく、さらに深い課題であり、思考回路もかかわる問題である。あるグループが「説得力がある」と感じるアピール法が他のグループにはそうでもないこともある。 

論理的なグループと直感的なグループがある。われわれが、もしある論じ方や説得方法を採用するならば、それはある人々に合わせて、それ以外を横に置くということでもある。 

2)文脈化しないことの危険 

a) 入念な文脈化は必要であり、新しい文化への意識的な文脈化がなされないところには、他の文化への無意識の深い文脈化が生じている。我々の福音宣教は、我々自身の文化に十分すぎるほど順応しており、また新しい文化への順応はすぐにはできず、できても不十分であることが多い。これがキリスト教のメッセージをゆがめるのだ。この文化脈の課題は、社会の「主流派」の人には理解が難しい。逆に少数民族、被抑圧グループはすでに2つの文化(自分文化と大文化)の中で暮らしているので、彼らは物事を判断する上で文化がどれほど影響を及ぼすかをよく知っている。魚が水を知らないのと同じで、アングロサクソンのクリスチャンは、自分の福音のどこがアングロで、どこが聖書なのかの境目を知らず、ここに文脈化のトラブルの生じる原因がある。彼らは、彼ら自身の説教、礼拝、宣教方法に変更を加えることは、福音の妥協と考えてしまうが、この場合、マルコ7:8「言い伝えを聖書の真理と同じレベルまで引き上げる」間違いを彼らは犯しているのだ。 

b) アメリカに多い、個人主義的傾向の強い教会にいるキリスト者は、共同体に深く入り込み、霊的な責任と規律の下に身を置くことの大切さを知らない。ゆえに教会ホッパーとなり、いろんなところに顔を出し、深くかかわろうとはしないこととなる。彼らにとっては会員になることもオプションなのだ。これも「文化」であり、この影響を受けた人は、教会の教える側にも教えらえる側にも両方存在する。 

c) またリーダーが、自分たちが影響を受けた方法やプログラムをそのまま繰り返すという失敗を犯すケースもある。もし彼が、ある宣教師の語る45分の説教に感銘を受けた、あるいはある特別な賛美に感動した、ある特定の順序と長さの礼拝がよかったと感じる場合、その細かいところまでその人は適用しようとする。彼らは、宣教の表現方法を「自分達に文脈化」しているのであり、「彼らがこれから届こうとしている人たち」にではない。 

d) リディーマー教会を見学し、帰って行った人たちの教会を訪れてがっかりすることがある。プログラムが、(週報の書き方に至るまで)リディーマーのコピーなのだ。彼らはリディーマーの底に流れる神学的な原則や、いかにアメリカの都市文化を分析しそこに順応させていったかをつかもうとせず、自分たちの対象への「文脈化」を手抜きしていた。みな「文脈化」はするが、どのようになすべきかをよく考えていないのだ。 

考えよう⇒「文脈化」について気づいたこと(重要性、やらないことの危険性)について語ってみよう。

【BBB】文脈化はどうあるべきか? 

1)バランスの取れた文脈化 

多くの説教者は、「聖書の釈義」から「聞き手の新しい文化」への道は one way でよいと考えている。彼らは、方向を変えることは、聖書の権威を犯すことになると考えるのだ。そのベースには、「私は聖書を正しく理解している。文脈化は重要ではない」との 2 つの間違った考えがある。これは、我々が「罪びと」のみならず、「有限な存在」であることを忘れている。では、どうすれば聖書の権威と高潔さを保ちつつ、我々の理解の欠けを正すことに open であれるか。新しい文化に対し、我々のメッセージを信仰的かつ実り多いものとすることができるか。 

それは橋の行き来が「双方向」であることによって可能となるのである。 

2)橋とらせん 

a) 双方向の橋のイメージは大切だ。1970年代に「双方向」が始まったときは、「西洋のキリスト教は正しく、普遍的な表現」という理解だったため、橋を渡る前に微調整するだけ(言葉の翻訳、現地の音楽や服装程度)でOKとの考えだった。また文化はバラバラの風習の寄せ集めで、その一部をはぎ取り置き換えることは可能であり、他の部分は不変でもOKとした。しかしその考えが、西洋の宣教師たちの、自分の神学や実践方法をチャレンジなしに持ち込むという安直な考えを許し、結局は失敗に終わった。 

b) 双方向の橋のたとえは、「文脈化」を説明するには不十分だ。橋の両端の権威は同等ではなく、聖書が優れていると、福音伝道者たちは考える。確かに聖書には特別な権威があるのでこれは正しい。もし仮に聖書が「間違い得る」人間の作品なら、文化と聖書は「等しく」権威的であり、相対的となる。となると、結局文化や世代によって、キリスト教は変化しうるし、時代や国が違えば、言うことが矛盾することもありうると判断され、真理を把握することは不可能となる。 

c) この聖書解釈を「双方向」改め「輪」と変える考えの欠点は、聖書と文化を等しく権威的に扱うことは実際上不可能ということにある。聖書のこの部分は正しいが他の部分は時代遅れと言うなら、結局文化が上で聖書はその下ということになる。だから、聖書が最終権威であり、それをもって文化の中のどれが良くどれが悪いかを決める(ケース1)か、文化が最終権威であり、それをもって聖書の中のどれが良くどれが悪いかを決める(ケース2)のいずれかしかない。つまり対称的な橋のイメージは崩れる。われわれは堕落した被造物であり、放っておくと我々は最終的な特権を文化に与えるため、この「輪」は崩壊するのだ。 

d) それゆえ、文脈化は双方向だが最終権威は聖書になければならない。よって今は聖書解釈の「輪」でなく、「らせん」の理解が正しい。もし両者が対等なら、聖書と文脈化の間を行ったり来たりするだけで終わりがないが、「聖書に絶対的な権威がある」となると、行きつ戻りつを繰り返しつつ、神の世界に対する我々の理解が正確となり、その動きはらせん状に「ある特定文化」にしっかりと近づき、その文化と交流することが可能かどうかが明らかになるのだ。 

e) 聖書解釈的らせんにより、神学の極端化を防ぐことが可能となる。極端化の一つは原理主義で、それは対象の文化のしばりは受けず、聖書は普遍的な言葉だとする。その逆の極端化は、聖書の神学は、つねに対象の文化による根本概念の範囲の中でしか語れないというもの。福音伝道者は、この中間を求めている。聖書を語るのに、「普遍的な言葉」も「文脈化で調節した言葉」もないが、それにもかかわらず聖書は絶対であり普遍の真理であると。これを「バランスを取りつつ行う文脈化」という。これが霊的権威の蝶つがいとなり、これにより両極を避け得るのである。 

考えよう⇒文脈化を「輪」ではなく「らせん」で考えると、実際の伝道上どういう変化が生じますか。