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センターチャーチ

「福音の文脈化」についてのおさらい #2(本文 P114〜)

【AAA】信仰のモチベーション 

1)ノンクリスチャンが信じるに至るモチベーションには次の6通りあるという(D.A カーソン) 

  1. 死と最後の審きへの恐れから信じる(ヘブル2:14-15、18)
  2. 罪と恥の両方からの解放を求めて信じる(ガラテヤ3:10-12)
  3. 真理に対する魅力が信仰へのモチベーションとなる(Iコリント1:18)
  4. まだ成就していない願望が満たされることを通して(ヨハネ4:14-15の生ける水は永遠のいのち以上の約束)
  5. 問題の解決を通して(マタイ9:20-21 長血の女、マタイ9:27の盲人)
  6. 単に「愛されたい」という望みから 

2)聖書の著者たちはこの6つの道で人々を説得してきた。ロジカルなものもあれば(真理の魅力)、直感的なものもある(キリストの魅力、欲求の成就)。物語によるもの、ショートターム(必要への満たし)、ロングターム(永遠の審き)といろいろだが、私たちにはこれを決定する権利はない。我々がキリストに導かれたのは、このうちの一つであり、同じモチベーションで導かれた人が同じ共同体に多くいるかもしれず、ゆえにこの「お気に入り」の道で他の人も導こうとするとする傾向があるが、聖書はそんなことは言っていない。その場合我々の説教は十分に聖書的でないことになってしまう。 

3)我々は「聴衆についての知識」に従って、アピールするモチベーションを変更するのだ。福音のメッセージにターゲットの聴衆を引き込む最も効果的な導入があるなら、まずその入り口を提示し、ゆくゆく聖書の語るすべての道を語っていくことがよいと D.A.カーソンは言う。 

考えよう⇒あなたは1〜6のどれで信じましたか。それ以外の伝道のアプロ―チの訓練を必要と考えますか

【BBB】アクティブな文脈化 

1)効果的な文脈化に何が必要か?「親しく、尊重と肯定をもってドリルのように文化に入り、聖書的真理に反する部分には発破のように対峙する」がその答えである。もし発破のみなら、「静止摩擦」が生まれず今の流れは止まらず、排除されて終わる。大胆さとすがすがしさは残るかもしれないが、福音の強制力を発揮することはできない。もしドリルのみなら、その文化を肯定し、熟慮し、人々がOKと思うことを言うが、悔い改める人はおこらない。片方ずつでは岩は動かないのだ。信じるところに従って「ドリル+発破」で文化の間違いに挑むなら、福音は人々にインパクトをもたらすだろう。 

2)文化に入り込むためには、そこで支配的な世界観、信仰を知ることが必要だ。探すべき信仰は次の2つ: 

  • 信仰A:神の一般啓示により、部分的にせよ、すでに彼らが聖書の教えに応答している内容。 
  • 信仰B:キリスト教の信仰を信じがたくし、時に攻撃する要素を含む内容。(教義Bはキリスト教の真理と明らかに矛盾する教義となる)

3)我々は彼らが正しいと信じている物事の中から語ることで、初めてその信じているものの間違いにチャレンジできるのだ。すべての文化は、独自文化への信仰と、キリスト教信仰のオーバーラップした部分(信仰A)を持つ。この信仰Aと、敵対的な信仰Bの区別を明確にすることは大切だ。そのことにより、対峙せざるを得ない問題が見えて来るのだ。「教義Aに立って、教義Bについて議論を交わす」がパターンだが、AとBの関係は次の例が分かりやすい。 

4)木は浮き、石は沈む。しかし多くの木を集めてその上に石を置くと、石も木も川を渡ることが可能となる。 

逆に石を集めてその上に木を置いても、石は沈み、木もばらばらに流れて終わりで、川を渡ることはできない。 

つまり石は木のうえにおかないとだめで、逆は不可なのだ。このように教義Bは、教義Aの上に載せて運ぶのだ。 

ある文化がAを信じるならBを信じないことで矛盾が生じる。それは神の真理である聖書は、決して矛盾しないからだ。文化のはらむこの矛盾は、その文化が対峙を受けたとき、どの部分がもろいかで明らかになる。 

5)パウロはアレオパゴス説教で、異邦人の詩から、「神はすべての存在といのちの源」(使徒17:28)と論じ、そのうえで、「もし、我々が神に造られたのなら、どうして神が我々に造られることになるのか?なぜ我々の用意した宮でのみ礼拝するのか?」(使徒17:29)と問うた。パウロは、彼らの信仰が彼ら自身の前提と矛盾していることを示した。「もしAを信じるならそれ自体は正しいことだが、なぜ同時にBが信じられるのか」と。 

6)このように、「あなたはAを信じるのか?それはいいと思う。聖書もそう言っている。でもAは真理なのに、どうして Bを信じるのか?」「聖書はBを教えている。もしAが真理なら、Bを否定することは、正しくないし、フェアーでなく、筋も通らない。」「これを信じるなら、どうしてあれを信じないのか」と。我々の批判の力は、文化の中で肯定する部分を積み上げる中で明らかになって行くのだ。この時の我々の前提は、全て聖書から引き出されるべきである。 

考えよう⇒「ドリルと発破」「文化Aと文化B」の組み合わせを、具体的なケースで考えてみましょう

【CCC】偶像礼拝としての罪 

1)ティムケラーはマンハッタンでミニストリーを始めたとき、キリスト教の「罪の概念」に対する文化的なアレルギーに直面し、それを契機に偶像礼拝の罪の研究に向かった。自分の人生の全てに順位付けと意味付けをするのが偶像だ。良いものを含めて。それも神以上に激しく。何かの上に自分の人生を組み立てるとすると、それが何であっても、情熱も、選択も、すべてをリードすることとなる。たとえば、もし私たちが真理より他人の評価を重んじるならうそをつくようになるだろう。家族より金儲けを大切にするなら、キャリアのために自分の子供を無視するだろう。偶像は、自分の中の駆り立てる力。それは恐れであったり、中毒であったり、誠実さの欠如であったり、他人への嫉妬や怒りであったり、様々な顔を持つ。じつは神を愛すること以外に、この偶像崇拝の立て直しは不可能なのである。 

2)一世代前の西洋の人たちは、「良い人」になることを一番大切なこととした。が、今は「自由な人」に最大価値を置くようになった。この受け入れやすい「自由に生まれた」ということ(A教義)をベースに、「神の前に罪びと」というB教義を説得していく。それはまず上記の偶像のどれかに縛られた自分に少しでも気づいたら、「自由」に最大価値を置く人に、逆説的に「もし神に仕えないなら、あなたの考えている自由は与えられないよ」と説くのである。 

3)日々の生活の「塹壕」の中で、無神論なんてありえず、礼拝をしないこともありえない。問題は何を礼拝するかだ。我々は良いキャリアを得るために、小金をためて安心するために、あるいは政治的に何かを為すために働く。全ての活動は礼拝だ。たとえそう認めなくとも。ただ神でなく被造物を礼拝し、それが最後にはあなたに霊的荒廃をもたらすのだ。彼らはあなたを駆り立て、礼拝させ、その礼拝対象が最後にはあなたを生きたまま呑み込んでしまう。あなたは奴隷と化し、不幸だが、それがなぜだかわからないのだ。 

4)旧約の預言者たちも、パウロも、文化を批判するのに偶像崇拝を指摘した。たとえば、アメリカ人は「繁栄が幸福をもたらす」と信じ切ってきたが、それは幻想だ。なぜなら中途半端なこの世の楽しみが人の心を満足させることはないからだ。その結果、民主主義の、かつ満ち足りた生活のど真ん中で、奇妙な憂鬱に悩まされることとなる。この憂鬱は偶像のもたらす苦々しさで、最後は失望に終わる。うその神は、彼らの約束するものを決して与えないのだ。つまり繁栄は繁栄を生むが幸せは生まない。カネはカネを生むがそれが幸せを生むわけではない。 

考えよう⇒人間は必ず何かを礼拝するという考えには賛成しますか?ここでいう偶像とこれまであなたの抱いてきた偶像イメージはちがいますか?