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センターチャーチ

「都市に対するビジョン」についてのおさらい #2(本文 P146〜162)


【AAA】新約聖書の贖いと都市 

捕囚の民は捕囚の町で働き、その町のために彼らは祈った。しかし、そこの文化を採用、適用することはあっ ても、彼らが自らの神の民としてのアイデンティティーを失うことはなかった。神はユダヤ人に、捕囚の中にあ って神の栄光のためにこの都市のテンションを受け入れ、喜んでこれに応じていくことを求めた。これはまさに、 今のクリスチャンに神が求めておられることだ。 

在留異国人は常に「称賛」と「誤解」の中に生活している。イエスは「キリスト者の『よいおこない』が偶像 崇拝者に見えるようにせよ。しかし誤解や迫害は避けられない」と警告し、同じくペテロも、「キリスト者はよい おこないによって神が崇められるようにせよ。しかし同時に迫害も覚悟せよ」と言っている。このように旧新約 の時代は互いに似た状況にあったが、一方でキリスト教徒の立場は、ユダヤ教徒の捕囚とは大きな違いがある。 1つ目の「数を増やせ」という命令は、子供を作り家族が成長するように努めよという意味で、これは排他的だ。 が、キリスト者にとっての「増えろ」は、伝道と弟子化によるものである。ここに旧約から新約への神の召しの パラダイムシフトを見る。旧約は「イスラエルがよい民となり外の民にそれを見せろ。異邦人はそれを見て中に 入って来い。そして神を礼拝せよ」と招いており、求心的で、流れは中心に向かっている。しかし新約は遠心的 だ。新約の神は民に「出て行って、世界中で福音を宣べ伝えよ。」と命令しているからだ。バビロン捕囚も、ヨナ の宣教も、未来(新約時代)への橋渡しだったのだ。 

イエスは宣教的戦略として、取税人や罪びとたちと食事をした。この変化により、クリスチャンの異邦人世界 における行動は、バビロン時代のユダヤ人より「自由」になった。が、それと同時に同化や妥協の危険も拡大し た。ノンクリスチャンも一般啓示を受けているとはいえ、やはりクリスチャンは、その文化の中では偶像や不正 から身を遠ざける必要があるのだ。 考えよう⇒ユダヤ人は求心的排他的、クリスチャンは遠心的包括的と言う時、あなたはクリスチャン的ですか。 

【BBB】都市への招き。新約時代 パウロをはじめとするキリスト者たちは、みな町の中心へと向かった。それはキリスト信仰が交通の要衝に植え られさえすれば、その後は時間とともに広がるからだ。都市は多民族であり、国際性においてもすぐれていたた め、改宗者は自国にその信仰を持ち帰った。また政治、法律、芸術などがみな都市に集中したため、最終的な文 化への影響も、都市で宣教するかぎり与えやすかった。 

【CCC】現代の都市での宣教のチャレンジ リディーマー教会の例。ティムケラーは、ニューヨーク、マンハッタンに教会を作った。3年でニュージャージ と、ウエストチェスター(ともにベッドタウン)に姉妹教会を作った。もし郊外に最初の教会を作っていたら、こ れほど短時間にマンハッタンに複数教会を持つことがはできなかっただろう。なぜか。都市から郊外へは可能だ が、郊外から都市へは不可能なのだ。都市は心臓であり、すべてを吸い込み、又吐き出す。学生は都市に学びに 来て、卒業するとそこから出て行く。独身者は都市で出会い、結婚し、子供ができると郊外に連れて行く。諸民 族は、都市に移民し、民族の飛び地で生活し、しかし、資産を持ち、地位を得ると、自分を育ててくれた家族に 会う場所を確保するために、郊外に出て行くのだ。どのケースも中心から外へだ。その結果、都市で成長した教 会は共同体を形成するが、その共同体は、隣接する地域を通して、他の大都市へと自然と広がっていくのだ。 考えよう⇒都心で教会を持つとき、都市から郊外への移住、日本から自国への帰国という流れは、「教会員が減 る」という面でマイナスと考えますか。それとも「福音の広がり」という点でプラスと考えますか。 

【DDD】都市での宣教の可能性【D-1】若い世代へ 発展的な展望、革新し続ける気風、多様性のある人々と互いに影響することは、若い人たちを引き付ける要素だ。 若者は不釣り合いに都心に住みたがり、野心的だ。若者と年配者で、都市への愛着は全く違う。もし教会が郊外 に固執し、大都市を無視するなら、今後のニューリーダーを丸ごと失う可能性がある。【D-2】文化エリートへ ビジネス、出版、メディア、学究、芸術の分野で影響を与える人たちは町の真ん中に住み、又そこで時間を使う。 都市は、文化や世の価値観にこれまでにない影響を及ぼすので、キリスト者が影響力を持つにはまず都心に教会 を持つことだ。地方でやっても他の地方に伝播する可能性は低い。しかし、都市で行った宣教は、他の都市に向 けてのアピールとなる。それも若い世代の人たちに向けてのである。【D-3】外国人へ 外国人たちは、人口急増地域に流入しており、彼らは自分の出身国にいる時よりもキリスト教信仰に対しオープ ンだ。彼らは元の自分たちの土地から一時的にせよ引っこ抜かれた存在だ。そしてこれまで頼りにして来た親族 関係、同国民のネットワークからも切り離されている。また発展途上国の場合、政府のサービスが彼らに届いて いない場合もある。これらの new comer たちは、海外での都市生活からくる文化的、経済的、情緒的、霊的スト レスを受けており、常にその解決を求めている。これは、キリスト教会が彼らの身を寄せるコミュニティーとな り、新たな霊の家族となって福音を宣べ伝える素晴らしいチャンスなのだ。 移民した人たちにとって教会に集うことは、我々日本人が教会に集うことよりもはるかに抵抗が少ない。それは 彼らが以前の住環境にはあったであろう「縛り」から解放されているからだ。我々の教会がそのような人たちに 積極的なアプローチはしないまでも、そのような「落穂を必要とする人たち」が門をたたいた時に、新たな教会 メンバーとして受け入れる態勢は必要だ。その人は驚く速さで飢えを癒し、おなか一杯になるであろう。【D-4】貧困層へ 都会でエリートに仕え、それと同時に貧困層に仕えることは、互いに関連しており無関係ではない。都会の教会 にとっての貧困者に対する働きは、その存在の妥当性の象徴となる。これは偶像礼拝者が神を崇めるきっかけと なる「よいおこない」の一つだ。「あなた方の光を人々の前で輝かせなさい。人々があなた方のよいおこないを見 て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためです。」(マタイ 5:16)「異邦人の中にあって立派にふ るまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、 神の訪れに日に神を崇めるようになります。」(Iペテロ 2:12) とある通りだ。これと同じように、文化的エリ ートがキリストを信じたら、彼らを弟子化する上で、彼らの富と権力を今後は自分のためではなく貧しい人たち と町の必要のために使うように指導することが可能となる。言い方を変えると、都会の教会は、貧者への宣教と ファッショナブルな人たちへの宣教を区別すべきでない。貧者を助けるためには、エリートたちの経済的、文化 的資材が必要だし、貧者へのコミットメントは、文化的エリートへの証しとなり、我々のメッセージの妥当性を 支持するからだ。 

考えよう⇒文化的エリートへの伝道と、貧しい人や町への奉仕(つまり、そういった対象に自分の持てる資源を 使うこと)を同時に奨めることは、可能かつ有効とかんがえますか (マタイ 19:21)。都心の新しい教会において はどうでしょう。具体的にはどんな方法がありますか。困難を覚えるとすればどういう点ですか。