【AAA】
1)福音とは1福音は良い知らせだが、良いアドバイスではない。つまり福音がすべてではない。福音は「生き方」ではない。福音は私たちのために何がなされたかであり、私たちが何をしないとダメかということではない。ただ、 為されたことへの応答は求められている。2福音は、私たちが救われたという良い知らせ。福音とは、イエスキリストが、私たちと神との関係を正常化するために、何をなして下さったか(ローマ5:8、IIコリ5:20)を示す。クリスチャンになるということは、その結果のステータスの変更を意味する。まさに死から命に移った(i/o 移る)のだ(Iヨハネ 3:14)。「あなたはクリスチャンですか」という質問に、「私はそれほどいい人ではない」と答えるなら、サタンのウソにはまっているとロイドジョンズは言う。「主はよいお方。私は主の中にいます」が正しい答えであり、あなたがどんな人であるかは関係ないのだ。つまり神との関係の変化に尽きる。キリストの死による死の死である。
考えよう⇒1はこれまでのあなたの福音理解とちがいますか?1と2はどういう関係かも考え、「あなたにとって福音とは」を整理してみましょう。
2)福音は福音の結果ではない1ルター曰く、我々は信仰のみによって救われた。しかしいつまでも「信仰のみ」ではなく、そのあとはこれに「良い働き」が伴うのである。が、「救い」と「働き」はもともと無関係で、救いは「働きによって」あたえられるものでも、「働きを通して」あたえられるものでもない。福音はキリストの働きのプログラムに加わることではなく、キリストがすでになし終えた働きをうけとること。これがクリアーになっていないと、 「信仰による救い」が、「働きによる救い」に変化してしまう。2「愛の生活が福音を具現化するから」と言って、また「それが説教と切り離せないから」と言って、福音と一つにするのは間違いだ。このグッドニュースは、愛の生活を生み出すものだが、愛の生活そのものは福音ではない。
考えよう⇒「救い」と「働き」の関係を、もう一度自分の言葉で整理して説明してみましょう。
3)福音には章がある
章 福音の物語における問い その答え
第1章 私たちはどこから来たのか? 神から来た
第2章 なぜ世界はおかしくなったのか? 罪による
第3章 何が世界を正しくするのか? キリストの御業が
第4章 私たちはどうすれば正しくなれるのか? 信仰による
正しくない福音は第1章「神と創造」、第2章「堕落と罪」、第4章「信仰」のみで終わっている。これは福音ではなく、福音のプロローグとエピローグだ。ポイントは第3章の「受肉、身代わりの死、回復」であり、これが福音なのだ。1私たちはどこから来たのか?
神から来た。世はこの神によって創造された(たまたまできたのではない)。では、なぜ創造したのか?それは三位一体はもともと愛の関係ゆえ、神は愛を知っておられる。だから人間を愛の対象として造られた。 しかしそれは「互いに愛し合うため」ではなく、「神の愛を我々人間にシェアする(そして我々に仕える)ため」であった。かたや私たち人間には、その応答として、「神に仕え、礼拝する」ことが求められている。 2ではなぜおかしくなったのか?
罪ゆえ。礼拝し、仕え、他者を愛するために我々は造られたが、我々は反逆し、自己中心に陥り、その結果この罪が「奴隷状態」と「有罪判決」をもたらした。「奴隷状態」とはお金、キャリア、家族、恋、セックス、権力への隷属であり、このために生き、これにコントロールされる人生に。その結果、恐怖と怒りと絶望にさいなまれることに。「有罪判決」とは神のために生きないことへの永遠なる死の宣告である。3何が世界を正しくするのか? 答えはキリストだが、そのキリストの……
a)受肉:神と人間の関係は、シェークスピアとハムレットの関係で、登場人物(人間)は作者(神)が書いた分しか作者(神)と関われないし、それ以上は「分らない関係」だ。ここに絶対的主権あり。しかし作者たる神が、主人公(人間)を救うために、歴史という書物の中に、パートナーとして御子を書き込んでくださったのだ。
b)身代わり:NOというだけでなく主は体を張られ、我々の受けるべき拒否と有罪判決を引き受けてくださった。これは不完全な私たちにはできないこと。また私たちには支払えない額の賠償であった。
c)回復:再臨の主は、審き主として到来し、すべての悪とわずらいと腐敗と死を滅ぼしつくされる。つまり新天新地における贖いがその最終目的であり、最後は逃避ではなくこの世の刷新を目指しておられる。 4どうすれば我々は正しくなるのか?
信仰を持つことによる。死んでよみがえった主イエスを信じることで、我々もいつの日かよみがえるのだ。
【BBB】 福音により新しくされることのエッセンス宗教と福音の違いは次の通り。
宗教 福音
私は従う。だから私は受け入れられる。 私は受け入れられている。だから私は従う。
動機は、恐れと不安 動機はよろこび
神に「何か」を求めるために、神に従う 神を喜び、神に似るために従う。そして神自身を求める。
生活でなにかうまくいかないと、神か自分に対して怒る。それは、良い人は良い人生を送れるはずと信じているから。
c)偶像は一般的には良いものばかりだ。家族、達成感、仕事、キャリア、ロマンス、能力……そして福音的なミニストリーさえそう成りうる。つまり、それが自分に意義と喜びを与える最高に大切なものとなった時、偶像化し、私達を縛り付けるのだ。なんでも、過度に求めたり、怒ったり、失ったときに極度に落ち込むとしたら、要注意である。良いものを失うと悲しみをもたらすが、偶像を失うと荒廃をもたらす。十戒の第一戒を 犯すことなくして他の9戒を犯すことはなく、偶像崇拝はあらゆる罪の根だ。したがい「福音によって新しくされる」ことを語る説教者は、常にこの偶像崇拝の危険を語る必要がある。
考えよう⇒あなたの福音理解は「福音」ですか。宗教化した福音を真の福音にもどすことは可能でしょうか。
以上 何かがうまくいかないと、もがくが、神が自分を訓練するために為してお られること、また試練の中にも父の愛があることを知っている。
批判を受けたら、怒るか、困惑する。なぜなら、自分がよい人であることは、自分にとって大切なことだから。ゆえに、セルフイメージが壊れる ことを何より恐れる。
批判を受けたら、もがくが、自分が自分をよい人と思うことは重要ではないこと、また自分のアイデンティティーは自分のパフォーマンスによらず、キリストにある神の愛によることを知っている。
自分の祈りは嘆願が主な内容で、求めるときは熱くなる。祈りの主な目 的は、環境をコントロールすることである。
私の祈りは、賛美と礼拝を惜しみなくささげること。またその目的は神との交わりである。
自己像は2つの間を行ったり来たりしている。つまり自分の標準に達している時は自信がある。しかしその時はプライドが生まれ、落胆している人に同情できない。標準に達しない時は謙遜だが、自信がなく、自分を敗者だと思う。
自己像は、自分の道徳的な達成度に左右されない。一時は罪と迷いの中にあった自分が、今は受け入れられたからだ。主イエスが死ななければならないほど私は悪かったが、主が身代わりに死ぬほどに私は愛された。このことは自分を、深い謙遜と深い自信に導く。
私のアイデンティティーと自己価値は、どれほど一生懸命に働くか、どれほど自分が道徳的かによって決まる。だから私から見て、怠惰か、非道徳的な人を私は見下す。他人を見下し、自分は他人より優れている と思う。
私のアイデンティティーと自己価値は、私を含めて自分の敵のために死なれた方に、その中心を置く。ただ100%の恵みによって、今の私がある。だから、私と違うものを信じたり、他の行いをしている人を見ても私は低く見ない。議論して勝ちたいという欲求はない。
私の家系や、能力、過去の道徳的な行い、社会的地位が偶像化しており、無くてはならないものになっている。それが私の希望、生きる意味、幸せ、安全であり、私が神と信じるものはそれらを代表するから。
人生には良いものがたくさんある。家族、仕事……と。しかし絶対的なものはなく、それらは決してなくてはならないものではない。だから、それらがなくなったとしても、そこからくる不安、苦々しさ、絶望も、私への影響力において限界がある。