(1) 真に宣教的とは「真に宣教的とは」は、我々に共通の問いである。1998年以降「宣教的」という題で多くの本が出版されたが、その使われ方は皆違っていた。そして混乱があった。この時代の前には MISSIO DEI(神の遣わし)のフレーズの流れで、プロテスタントメインラインとエキュメニカルの世界で、さかんに「宣教的」という言葉が使われた。ところで、この MISSIO DEI は、「世界における神の行動」を表すために鋳造された言葉だ。神は世で活動的であり、全被造物をあがなうために働いており、この務めに参加することが教会の役目だというのだ。まずこの MISSIO DEI は、ボッシュによると三位一体神学をベースとしている。過去「宣教」は、救済論をベースに考えられたり(つまり魂を救うためのもの)、あるいは教会論(つまり教会を拡大するためのもの)として論じられたりしてきた。が、MISSIO DEI は神の本質から引き出されたものであり、三位一 体の教義に立つべきであって、教会論や救済論ではない。三位一体は、送り出すのだ。父は子を世に送り、 父と子は聖霊を送った。そして今や聖霊が教会を!である。神は、宣教のために「送る」だけでなく、自らすでに出ておられ、教会はそれに加わらなければならない。これは「教会は宣教もする」ではなく、教会そのものが宣教のために存在することを意味する。
当初これは、健全で力強い神学のように思えたが、時間とともに「教会はさほど大切でない」ことを示すようになった。つまり、もし神自身が宣教をするなら「私たちは教会の宣教を後押しするのでなく、世界で神が何をしているのかを見、それに加わるべき」となり、「神の行為」は、宗教団体よりも非宗教団体に現れると考え、政治や文化的側面を強調するようになった。「神は政治で働いているのだから、神が政治を通して働くのを見、それをフォローせよ」と、メインラインやエキュメニカルは唱え、人権を謳い、左翼の働きに同調した。それがおかしな結果を生み、毛沢東語録が「新しい聖書」と呼ばれたり、「教会は社会的なサ ービスほどには、人の必要に応じてくれない。教会は政党や政治団体ほど世界を変えられない」と教会はいよいよ「不要」とされた。が、ニュービギンは、そんな教会の「非宗教化」を批判し、悔い改めと、教会の成長と、キリスト教共同体の3つの本質は大切であり、宣教の中心であって、宣教の目的は、質と量の両面 において教会が成長することだと訴えた。同時に「宣教的神」MISSIO DEI も大切であると。だから教会は成長せよ、それも世に仕えよ、世にあって正義の戦いを挑みつつ!と。
(2) ニュービギンとボッシュニュービギンは、1970年代宣教から帰国した時、英国社会の変化と教会の「不変化」を見て愕然とした。クリスチャンリーダーたちが文化の変化にうめいているのに、教会は相変わらず伝統的で保守的な人たちだ けが気持ちよく感じる環境を作り、満足している。彼らは人々を育てるのに、個人のスキルのみに焦点を当てている。そして非宗教の社会において、キリスト教が政治や、芸術や、ビジネスとリンクして、明確に区別できる生き方をするための方策を教えていなかったのだ。ニュービギンは宣教についてこうも言う。1世で召命を受けることを通して信仰と仕事に集中せよ、しかし2福音の聖書解釈の面から教会も大切と。そして愛、正義、平和は、キリスト教のなすべき「カウンターカルチャー」の象徴であり、その証しは多元的な社会に切り込む上で、最初の段階で非常に大切だというのだ。一方ボッシュは、MISSIO DEI(神の宣教)の中心概念を改めて「被造物の回復」に置き、「教会はそれに参加するように召されている」と述べ、「神の普 遍的な統治のもとに人々を連れ戻すことが宣教」とした。
(3) 今日の宣教的教会の動きダレル・グダーが、「宣教的教会」という書物を1998年に出版した時、そのベースはニュービギンとボッシュの MISSIO DEI 理論に立っていた。が、この本は当時のジレンマを説いた。当時の英国文化はすでにキリスト教から離れ、教会はすでに「現代社会という新たな宣教地」に立っていたからである。しかし一方で教会は、すでに現代文化のとりこになっていた。従い教会は自己改造し、文化に取り組むべき新しい方策を講じなければならないと。
そのような環境において論じられる「宣教的」には、次の4 つの流れがある。1宣教的であるとは、福音伝道的であること2宣教的であるとは、受肉的であること3宣教的であるとは、文脈的であること4宣教的であるとは、互恵的、地方自治的であること
1「宣教的」を、「福音伝道者として海外宣教にコミットする」とほぼ同義に考える教会がある。すべてのクリスチャンは宣教師という考えだ。まるで全体主義の様にいろんな共同体奉仕に力を注ごうとする。宣教とは「教会を通して個人が救われて行くこと」という考えだ。が、これは、「MISSIO DEI は、すべての被造物と現代文化のとりこになった人々の回復である」という視点を失っている。2「宣教的」とは「受肉的であること」というのは、キリスト教国モデルに対する批判の一つだ。以前は「魅力的な教会」を模索したが、これは「ノンクリスチャンが来てくれる教会」という意味で、 もはやオールドファッションであり、逆に「魅力的」から「受肉的」へ移行すべきという考えだ。地理的に近いところに住むクリスチャン同士が、厚みのある共同体をつくり、市民の中に入り込み、 隣人や都市に仕える。これはフルタイムの牧師からスタートする必要はなく、逆にいくつかのクリ スチャンファミリーが隣人の中に入り、そのキリスト者コミュニティーが近隣において正義と平和のために働く、そのことで次第にノンクリスチャンをその有機体に巻き込んでいくのだ。通常この 発想は、非正規のハウスチャーチの増殖につながる。3「文脈的」について。まず現代社会の現実とすべてのミニストリーを紐付けていくためには、文脈化が必要である。この考えは、先程の「福音伝道的」「受肉的」を含み、その上で地域に入り、共同 体のサービスに入って行くのだ。が、このままではサブカルチャーにとどまってしまう。本当に「宣教的」になるためには、文化を深く反映させつつ、コミュニケーションや教会活動の創造的なやり方を発見し、これが文化に順応しつつ、その文化にチャレンジを与えるのだ。これが「文脈化」の意味するところであり、これを積極促進するためには、さらにこの次の段階4に入って行かねばならない。 4「互恵的」「地方自治的」について。このグループは先の3つに同意し、それらを支持する。すべてのクリスチャンを宣教師と考えるし、教会は共同体の生活にもっと受肉的にかかわって行くべきだ という考えも持ち、また文脈化の大切さと、もっと文化にかかわって行くべきであることを固く信じる。しかしこれらの3つの確信は、MISSIO DEI の持つ暗示を十分には反映していない。このアプ ローチを採用する人は次の 2 つの結論に至る。
1)もし神がすでに宣教を行っているなら、教会はあえて人を動員して教会独自のサービスに従事させることにではなく、すでに神が世で行っていることに対し応答することに注力せねばならない。この「近隣において神はどういう働きをしているか」こそが、宣教的教会が繰り返し問わねばならない question だ。宣教的教会は、共同体の声に耳を傾け、「神の決意に驚く」ことに、もっとオープンになるべきだ。そして世が知るべきことを単にアナウンスするのではなく、教会自身が、神が今なさっていることを聞き、学び、それに巻き込まれていくのだ。
2)啓蒙運動のもたらす個人主義に対抗すべく、教会は、地域と地方自治体内において、罪、宣教、救いということばを再定義していく必要がある。罪は、神のきよさに対抗するものと語るまえに、 もっと水平的に考え、罪は自己中心、暴力、不正、プライドを通して、世にある神のシャロームを壊すものと捕えるのである。十字架は、我々の罪に対する神の怒りをなだめるための場所ではなく、世の諸力がいったんはイエスの上に下ったが、十字架を契機に、イエスの死によって、イエスに敗北を喫する大転換点なのだ。そして宣教とは、神の前に個人を正すことではなく、彼らを組織の一 員とした新しい共同体とし、社会構造そのものをあがない、世を癒すという働きにおいて神のパートナーとなることなのだと。
1〜4のアプローチに共通するものは何か。それは皆がこの「宣教的教会」という言葉を避けてき たが、多くのクリスチャンが今日、改めてこの「宣教的教会」を求めているということだ(この言葉を使うかどうかは別にして)。保守的な教義にこだわる人は、当初は、1「福音伝道的宣教」に留まるかもしれない。が、徐々に2「受肉的」3「文脈的」に進み始める。そしてリベラルとメイン ラインの信者は2と3にも見られるが、さらに進んで4「互恵、地方自治的」に惹かれる傾向にある。この4つはリアルで重要な違いを持つが、同時に大切な共通点も存在する。
考えよう⇒ご自分の「宣教的」のイメージは、「福音伝道的宣教」「受肉的」「文脈的」「互恵、地方自治的」のどの段階でしょうか。
(4) 教会の文化的捕虜状態この「受肉的」「文脈的」「互恵、地方自治的」な流れから、教会が文化のとりこになってしまっていることがわかる。さらに福音のメッセージは文脈化され、わかりやすく、かつチャレンジングでなければならない とわかる。多くの人が、無宗教の人たちや、福音主義教会にある「啓蒙思想から来る個人主義」にチャレンジすることで、文化のとりこ状態から逃れようとしている。現代的な考えが、宣教を、自己顕示や自己実現 の業に取り換えてしまうのだ。かつこの「個人主義」こそ、我々が挑戦し、退治しなければならない代物だ。 具体的には世を支配する「自分が除外されることを恐れる文化」に対して、我々は「あなたが自分を失うこと、そしてキリストと他の人に仕えることで、あなたは初めて自分を発見できる」と言わなければならない し、教会を支配する「理性的文化」に対しては、「あなたは、信仰なしには、威厳、希望、品性、コミュニ ティーなど、ほしいものは何も手に入らない」と言わねばならないのだ。
考えよう⇒「個人主義」は「自分が除外されることを恐れる文化」であり、これを脱却するにはまず「自分を捨てる」ことが必要という論理は、一見矛盾しますが、あなたにとって理解可能ですか。
(5) 対照としてのコミュニティー 現代文化において、我々のコミュニティーは、対照としてのコミュニティーとなる必要がある。つまりカウンターカルチャーだ。我々のコミュニティーの生き方と質が他と明確に区別できること、そして美しいことはその証しであり、世における宣教のメインの部分である。キリストは、「キリスト者が互いに愛し合っていることとその質が、世に我々が父から出ていることを示す」(ヨハネ17:20-21)と言った。言葉をかえると、宣教は、キリスト者が人々に悔い改めを奨めることのみならず、共同体に仕え正義を行うことを抜きにしては前進しない。これがニュービギンの訴えた「バランス」なのだ。リベラルは「正しい社会」を宣教の再定義とし、保守派は「伝道と回心」をキリスト者の働きと見てきた。が、多くの宣教的な思想家は、「ことばと行いの両方」がキリスト者の証しと見る。この種のカウンターカルチャーを担うなら、まずその町を、つまり文化と人々を愛することが必要で、宣教的な教会は何よりその都市を楽しみ、気にかけ、またそのために祈るのだ。もう一つの傾向は、教会同士、教派同士の一致だ。とげのある問題もあろうが、大きな流れは協力的であるべきだ。この「宣教的」という共通土壌に立つことは健全なことであり、センターチャーチの神学的ビジョンに思いのほかマッチする。そのときはじめて我々は、この「宣教的教会」という言葉を臆せず語ることができるのではないだろうか。
考えよう⇒あなたの教会は「ことば」派と、「行い」派のどちらですか。この点、逆のバランスを持つ他の教会(教団教派)との協力は、「宣教的」取り組みと考えますか。実際可能でしょうか。