僕たちには日々心騒ぐことが起こります。が、イエスが心を騒がされ、涙された。愛する者たちに死と絶望をもたらす、悪の源なる悪魔に対し、愛の憤りをもって挑み、勝利をされた。それがラザロ復活劇であり、そこから始まる十字架への道でした。 イエスはご自身の心騒ぐ戦いの末に「あなたがたは心を騒がせてはならない」と言われます。「なぜなら私の父の家には住むところがたくさんあるから。神を信じ、わたしを信じなさい」と。僕らの騒ぐ心は、根こそぎ掬い取って頂き、持って行って頂けるのです。 イエスの涙は、疑いようのない慰めです。そして死にゆく人にとってもこの涙は、死の闇を照らす光です。僕らは死ぬときこの涙を思い出すことができます。イエスはこの自分のために、今まさに涙を流してくださっていると信じて死ぬことができるのです。 それも、その愛の涙が、激しい憤りとともにあるということ。その憤りとは、すでに勝利した悪魔への憤りです。未だに最後の力を振り絞ってなんとか僕らを死と絶望の淵に追いやろうとする、往生際の悪い悪魔に対する怒りです。 イエスのよみがえりの光の中で、僕らの人生は、死を恐れない人生に変えられます。そして死を恐れない人生は、細かな恐れを吹き飛ばします。Jesus wept…僕らの悲しみに、駄目さに、常に寄り添ってくださるイエス。このイエスの語り掛けを聞く一週間となりますように。
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憤り、涙するイエス
イエスの出発が遅れたため、到着した時にはラザロは死んで4日も経っていました。イエスがそこに居なかったためにラザロは死んだと思ったマルタは「あなたがおられたらラザロは死ななかっただろうに」と言いました。本当にそうでしょうか。イエスは遍在なるお方です。と同時に、時間にも縛られないお方です。またお気持ちひとつで死をも留めることができるお方でもあります。僕たちは信仰にしても、神理解にしても、はなはだ限界ある者たちですが、イエスはそれを全部ご存じの上で、恵みを施してくださるお方なのです。 イエスはご自分を「よみがえりだ。いのちだ」と言われました。が、永遠のいのちは、イエスと今まさに交わりを持つ者だけが得られる特権であり、その者は愛に生きる!とアウグスチヌスは言います。つまり問われるのは、今愛に生きているかどうかです。妻や夫に対して。子どもに対して。隣人に対して。その人が生きている間に生かされてきた愛が、その人を死に打ち勝せるのです。それを説明した上でイエスは「あなたは、わたしがよみがえりでありいのちであることを信じるか?」と問われます。マルタのように、「主よ、信じます」と答えたいものです。
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キルケゴールは、絶望こそが、人間にとって最も恐るべき「死に至る病」だと言いました。そしてこの絶望の出方には2種類あって、一つは自分の弱さにムカつきながら生きるという症状。もう一つが自分のやり方にこだわり、猛烈な自己主張に生きるという症状です。これらの「弱さの絶望」「強さの絶望」とは対極にあるのが「望みを抱いた正しい自己主張」、でもこれは自分が好きになって初めてできることなんです。 イエスが最も大切な戒めと言われたのが、神を愛し、自分を愛し、人を愛するという3つの愛でした。「自分を愛するように人を愛する」は、僕らの隣人に対してできるmax/maxで、もし自分を愛することに絶望している人が居るとしたら、その人からは「人を愛する」は出てこないのです。逆に神のみこころを知り、その中で自分自身であろうとすること・・・ここにすべてがかかっています。 ラザロはイエスの光の中でよみがえりました。そしてこのラザロをイエスは「わたしたちの友」と呼ばれました。それは「お前たちにもラザロはいるだろう、その友のためにいのちを捨てるなら、あなたがたはわたしの友だ」ということです。僕らが絶望しないで済むのはイエスが復活されたから。この希望に生きる時、僕らは自分と和解し、いのちに生かされ、来るべき死の門を、喜びを以てくぐることができるのです。
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僕たちの人生には、あの事さえなかったらということがたくさんあります。失敗、挫折、そして人と比べてどう考えても自分に足りないもの、欠点、欠陥、適性不足・・・。神は愛、全知全能と言われても、自分に関してはそれが感じられず、「すべてのことを働かせて益とする」と聖書は言うけど、「どこが?」という思いに、ついなってしまいます。 しかし人生はドラマです。すべてのドラマはダメだったものが回復するという筋書き。パラリンピックが感動的なのは、その回復、復活の物語がすべての選手にあるからです。聖書は、その回復のドラマの最たるもの。素晴らしく造られた人類が罪によってダメになった。そこにイエスキリストの十字架の贖いあり、もとの状態よりもさらに良いものに、人間もこの世界も変えられていく。これが聖書の示す人類の物語です。 イエスは「わたしの羊をわたしから奪い去る者はいない」と言われました。「あなたに預けたspecial giftを以て、わたしと一緒にあなたの物語を完成させよう。わたしは死から復活し、この世に勝利した。このわたしを信じなさい。」と言われます。イエスの群れに属する羊は真の牧者の声を聞きわけます。逆にそれ以外の群れの羊にとっては、それは愚かなことだとも。さて僕たちはどちらでしょうか。
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「わたしは羊のためにいのちを捨てます」と言われたこのイエスのことばを、私たちはどれだけ自分へのことばとして受け取っているでしょう。私たちクリスチャンは、誰かのお世話をするとき、その人の中にイエスを見ます。これは素晴らしいことです。が、自分の中にイエスを見ているでしょうか。 困っている人、間違っている人を助けるには、困っている自分、間違っている自分に今寄り添い、助けてくださるイエスを見、その癒しを受け取った時に、初めてその人に対しても本当の伝道ができるのです。 またイエスが関心を示された「わたしの囲いに属さないほかの羊たち」は、これまで教会には見向きもしなかった人たちのことですが、この人たちを本当の牧者に連れ戻すには、私たち自身が「その牧者に今日帰るという」方向性を持っていることが必要です。 イエスが私たちの中でそのように働いてくださっていること自体が、レジリエンス(折れない心)です。そして、自分の弱さをイエスによって支えて頂いているという方向性が見えた時、周囲の人も本気でイエスに頼ってみようという気になるのだと思います。今どんな状態かということより、今イエスを見ているか。その方向性が大切なのではないでしょうか。
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イエスは門。この門を通らずに羊小屋に入る者はすべて、偽牧者であり、盗人だとイエスは言われます。羊に仕えるのが牧者であり、偽牧者は羊を食い物にし、最後は散らす者たちだと。ところで僕たちはどちらでしょう。真のサーバントリーダーは、「わたしは羊のためにいのちを捨てます」と言われたイエスに似る事なしには存在し得ないのです。 今の世界のクリスチャンリーダーたちは、なぜか力と富と繁栄を標榜します。が、マハトマ・ガンジーが目指し、達成した5億人の民主主義国家は、その延長線上にはありませんでした。彼はイエスの門から入り、イエス自身を手本とし、和解と、謙遜と、身代わりの犠牲に生きた真の指導者でした。でもその彼がクリスチャンではなかったというのは、なんという皮肉でしょう。 ですから僕らがリーダーになる時は、今、どっちを向いているか、本当にイエスの声を聞いているか、イエスの心を心としているか、問い続ける必要があります。そして自分が盲目で自己中心であることを認め、悔い改めることから始めたいと思います。小さな悔い改めが御国の到来の第一歩。1人が悔い改めるなら99人に勝る喜びが天にあるのです。(ルカ15:7)
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盲人は礼拝堂を追い出された後イエスと出会い、最後は「主よ、あなたを信じます」と言ってイエスを礼拝します。この盲人は目が開かれてから、何もいいものは見て来ませんでした。見たのはせいぜい彼を取り囲む野次馬、言い逃れをする両親、形式主義のユダヤ人などで、その中に彼の目が開かれたことを喜ぶ人はいませんでした。が、その嫌な経験とイエスとの出会いは、無関係ではありませんでした。 僕たちも、人に裏切られがっかりすることの連続ですが、それを通してイエスを礼拝する者に変えられるのです。これが、彼が盲目で生まれついたのは神の業が現れるためだとイエスが言われた「神の業」(ヨハネ9:3)なのです。 僕らは未だに心の盲目状態にあり、立場や、国籍や、いろんなもので人を差別してしまう弱さがあります。そうではなく、「最も小さな者にしたのはこのわたしにしたのです」と言うイエスにお仕えする者でありたいと思います。そのためには「自分には闇があります。ここに光を下さい」と、心の闇を告白し、イエスの光によって真昼の心に変えて頂きましょう。 クリスチャンとは霊的呼吸をする人のこと。吐く息が悔い改めで、吸う息はその罪が赦されたと信じることです。逆にこの呼吸を辞めるなら、僕たちは霊的に死んでしまうのです。是非この盲目の男性と同じ信仰を持ち、心からこの主を礼拝したいと思います。
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癒された盲人は、神学的な知識は何も持っておらず、イエスについて問い詰められても、知らぬことばかりでした。が、「ただ一つのことはわかっています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」ときっぱり答えることができました。キリスト教は事実を扱う非常に科学的な宗教です。神に聞き従うとは、自分が体験したことを証しすること。実は僕らのやるべきことはこれだけなのかもしれません。 紀元1世紀のユダヤは、イエスの味方をすると追放される社会になっていました。盲人の両親の「本人に聞いてください」の言葉は、それが怖くて言い逃れをしたのだと、ヨハネは説明しています。が、盲人本人は、「彼は神から来たキリストです」と言い放ち、ユダヤ人の不興を買い、追放されます。でもそれゆえにイエスと出会うことができたのです。我々も人目を恐れず是を是とし、イエスに会う道を選びたいものです。 ヘンリーナウエンは、「放蕩息子の帰郷」の絵を見て、「自分は兄息子だけど自分も父親に触れてほしい」と思い、ハーバード大の教授職を捨て、ラルシュ共同体に移り住み、そこで神に本当に愛されるとはどういうことかを知ります。そして最後の10年は、「成功しろ、成し遂げろ」ではなく、「『これは私の愛する子』と言う慰めに安らげ」の声を聞く人生にシフトチェンジします。さて、あなたは日ごろ心の中のどんな声を聞いているでしょうか。
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僕たちは伝道するとき自分の導かれた道筋をイメージして伝道します。救いの証しもします。でもそれが伝わらないこともしばしば。それは皆さんが、「互いに人を自分より優れたものと思いなさい」(ピリピ2:3)とある通り、僕たちより優秀だからです。だから、「この人は僕の説得力では導けません。でもあなたなら可能です。今働いて下さい」と、イエスの多彩さ、ポケットの多さに期待して、委ねたいと思います。この謙遜さは大事です。 マルチン・ブツァーは、「すべての栄光は神につながる。良い理由、良い目的無くして何も起こらない。神はその出来事の中で、こちらに顔を向けてくださっている。だからこちらからも、顔を向けて、忍耐強く、元気を出して、その時を待とう」と言っています。「だから、whyではなく、whatを問え」と。つまり「『なんでですか』じゃなく、『これからどんなことが起こるのですか』と問え」と言っています。 人は死を恐れます。でも本当の信仰者はそうではありません。その人は、死が新しい世界への通り道だと知っているからです。死が変質する、これがキリストの復活パワーです。ここに立つなら、日々のどんなことも決定的でないことが分かります。あなたに「最悪」はありますか。でもその「最悪」が、新しいストーリーの始まりなんですよね。今こそ「この人に神の業が現れるためです」のみ言葉に、もっと信頼したいと思います。
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信仰とは、まず主が既に与えてくださっているものを喜ぶこと。そして次に、主がこれから為そうとしておられることによって喜んでいくことです。僕らはともすると、喜びを自分で作り上げようとします。バベルの塔のように自分の力と努力で、喜びの世界を生み出していこうとするのです。主が為そうとすることを待とうとしません。でもそれでは、主のみ業を拝することも、主を喜ぶこともできません。 そうでなく、アブラハムがイエスの日を生きがいとし喜びとして生きて来たように、私たちも、イエスこそ自分の生きがい喜びとして歩めるよう、祈りたいと思います。そうするなら、それができるなら、時を委ね、賜物を磨き、そして一歩前に出る時は「主の山に備えあり」(アドナイ・エレ)の信仰を持って、本当の生きがいのある日々を生きることができるのです。 イエスはモーセに生きがいを与え、アブラハムの生活を支え、イザヤもイエスを証しし、皆がイエスの日を見て生きてきました。イエスはすべての時代でともに働いてこられたということ。これは過去だけでなく、今この瞬間も変わりません。その意味でイエスは、場所にも時間にも制限されない無限のお方です。このイエスと私たちはどのような関係を作っているでしょうか。
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