人類の歴史はBCとADで分かれていますが、ADはラテン語の「主の年」の短縮形。教会の存在は、主が来られた証しです。主は「わたしにはあなたがたの知らない食物がある」と言われました。神のために働く者には、イエスと同じ「食物」、神の助けが与えられるのです。 ヘロデ王は、権力欲と猜疑心の塊でしたが、その取り巻き、エルサレムの人たちも「王と同じだった」と聖書は言います。ヘロデが失う事を恐れたように、彼らも自分の今持っている地位、特権、お金を失う事を恐れたのです。さて僕らの心の中にこのヘロデ王はいないでしょうか。 メシアと出会って、今持っているものを手放して、新しい旅、危険な旅に出るか、それともこれまでの自分に留まるか。これを鋭く問いかけて来るのがクリスマスです。自己中心のままでは、キリストを礼拝し、真の交わりに生きることはできないのです。 あなたは最終的に何を求めていますか。主は再びこの世に来られます。僕らは今、主の再臨を待ち望む待降節、アドベントに生きています。あなたもこのクリスマス、持っているものを手放してメシアと出会う旅に出ませんか。「主よ、来たりませ」と再臨の主を待ち望みつつ。
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最初のキリスト礼拝
愛するマリアが妊娠!?なんというショックでしょう。「それは聖霊によるって?そんなこと誰が信じれるものか!いったいどう離縁するのが自分にとって正しい道か?」セルフトークの連続だったヨセフは、この時、「神なき正しさ」に生き、でもそれでは解決できない問題の中で、悶死寸前だったはずです。 世の理屈では離縁が正解でしょう。が、その時、神の視点が与えられます。「この子はご自分の民を罪から救う神の子だ」と。自分は正しい者と思ってきたが、その「正しさ」ゆえにマリアを切り捨てる、その程度の男だったことにヨセフは気づきます。自分の愛の無さと自己中心に気付いた時、彼は、そんな罪びとのために御子を送ろうとしておられる神の愛を知るのです。 神の子がこれまでの在り方を自ら破壊し、この世に人として生まれ、33年生きたうえで十字架に死んで復活し、全人類の罪の贖いを成し遂げようとしておられる。その御子を迎えるクリスマスがやって来ます。光から闇への危険な旅。僕たちもこの主を迎えるにあたって、自分の殻にとどまることなく、自らの大変革を恐れず、お迎えいしたいとおもいます。 神は愛する者に自由を与えます。アダムも、アブラハムも、マリアとヨセフも、神の側を取るか、反対側を取るかについて自由に選べました。僕らもすべてが自由。これが神の愛し方です。そしてこの自由の中で何を選ぶかで僕らの人生は決まって来ます。この神の愛に驚くとき、僕らの選ぶべき道もおのずと決まって来るのではないでしょうか。
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イエスキリストがエルサレム入城の時に乗ったのは、馬ではなく子ろば、それもまだ人を乗せたことのない荷物用のろばの子だった。なんとたよりないことだろう。でもこの経験不足のろばを、イエスは弟子たちに「主がご入り用なのです」と言って連れて来させられた。 自分がどんな状態かが重要なのではない。大切なのは、主に「あなたが必要だよ」と呼んで頂くこと。そして神のご栄光のために用いられること。そこに最大のよろこびがある。 子ろばのそばには母ろばがついていた。経験のない子ろばのサポート役として。奉仕には、中心となる働きと、副の働きがある。しかし子ろばは、この母の存在で、初めて自信をもって大勢の人前に立つことができたのだ。 子ろばに乗った主の目線は、周りの人々と同じ高さだった。馬上から見下ろすことのない平和の王、へりくだりの主、仕えるために来られた方のお姿だ。主は、この後、我々の罪の贖いのために、十字架に身を置き、最も低くみじめな最期を選んだ下さった。
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祈りの習慣はありますか。それは、「お願いリスト」を空に打ち上げるような祈りになっていませんか。そうではなく、イエスキリストは、まず神が何を求めておられるかを知るために神のそばに行く祈りをせよ、神とともに過ごしたいという思いで神に近づく祈りをせよと言われました。動でなく、静の祈り・・・それが「御国が来ますように」「御心がなされますように」の祈りなのです。 自分が誰なのかを知り、神の大きな流れの横に立ち、何を期待され、何を為すべきかを思いめぐらす時、僕らの祈りは変質していきます。神は僕らがそう思う以上に、僕らと一緒に居たいと思っておられる・・・それが分かると、これまで必死で祈ってきたことが、神は全部ご存じで、そのすべてに責任を負ってくださっているということが分かって来る。その時祈りは「僕はいったいあなたと何をすればいいのですか」に変わるのです。 そして誰にも見せたことのない奥の間に、イエスキリストを招きましょう。神は僕たちの祈りが口にのぼる前からすべてご存知ですから、従来の通り一遍の会話にはがっかりされているかもしれません。そうではなく、これまで誰にも明かさなかった苦々しい思い、罪意識、嫉妬心、疑いを表に現わすなら、不思議なぐらい、これまで自分を縛って来た力がスーッと抜けて、急に楽になります。今週是非この新しい世界へ!
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イエスは弟子たちを強いて舟に乗せられました。が、その舟が嵐に遭ったのです。なぜ?と思います。それも、元漁師の弟子たちにさえ手に負えないほどの猛烈な嵐でした。舟は制御不能となり、彼らの自信も吹っ飛びました。私たちは、たとえ神に従って踏み出したとしても、逆境や試練を通ることがあります。 嵐に遭って弟子たちは叫びました。大の男たちがです。でも、そこにイエスはおられ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と励ましてくださいました。私たちは、困難に遭うと、まず自分だけでそれを解決しようとしてしまいます。でもあなたは一人ではありません。イエスは試練の中にもおられます。 波が静まったあと、ペテロは水の上を歩きました。が、周りの状況を見て、恐れ、沈みかけて叫びます。私たちは、たとえ信仰を持っていても、常に信仰と不信仰の間で揺れる者たちです。私たちの信仰、頑張りは、決して信頼に足る土台とはなりません。しかし、私たちにはイエスがおられ、この方は真実な方です。 沈みかけた時、ペテロがイエスにしがみついたのではなく、イエスが彼の手をしっかり捕えたとあります。そして風がやむと、彼らは礼拝したと締めくくられています。嵐を通して、彼らはイエスがそこに居られ、イエスこそ神であるということを知ったのです。神に従っても困難はあります。が、その時、主の真実さがあなたを支えてくださいます。
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黙想などというと特別な事のように思われるかもしれませんが、それは何かを繰り返し考えること。そして心の中でそれがぐつぐつ煮えていくことを言います。聖書の黙想を言うとき大切なのは、ある節を繰り返すうちに心の中で何が起こるか。そしてそのみことばが心の中で熟成した時、初めてそれがあなたに影響を与える思考となり、その思考が人生を形づくるのです。 アブラハムは約束の息子誕生を24年待ち、イスラエル人は奴隷から解放されるのに400年、モーセは荒野脱出に40年待ちました。このように聖書では「待つ」という行為は「信じる」とほぼ同義語と言えると思います。『「しかり、私はすぐに来る」アーメン、主イエスよ、来てください』とある通り、究極的に僕らの待つべきものは再臨のイエスだと聖書は言います。 仕事は自分で選ぶもの、召しは与えられるもの。そして召しに命を懸けるパワーの源が「すでに勝利した」という週ごとの伝令です。礼拝を通して運ばれてくる伝令を聞く中で、主の勝利の隊列はどこを向いているのか。仕事をする中でそのベクトルを発見し、神に励まされて歩みだし、神を賛美(拡大)しようではありませんか。舟を降りると、私たちは変えられるからです。
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ペテロはイエスの「来なさい」ということばに応えて、舟を降り、水の上に出ました。これは、まず召命がありその応答としての行為だったと言えます。さて、あなたの仕事に神の召しはあるでしょうか。職業は普通、自分のために自分で始め、一過性で終わるものですが、召しには「与えられた」という確信があり、それを為すための力が神から与えられ、その行為は永遠に覚えられるのです。 ペテロも「水の上でも沈まない」という信仰を持って、足を水につけました。足を水につける行為は、信仰抜きにはできません。ところで、あなたの生活の中に、信仰なしではできないことはあるでしょうか。「今日どこで足を水につけることができるでしょうか」と問い続けることは大切です。それはあなたを祈りに導きます。なぜならそれから先のことは神の助けなしではできないからです。 召命に応える時、人は恐れを覚えます。お父さんがプールの中から「飛び込んでおいで」と呼んでいます。その子が飛び込めば、それは大きなブレークスルーです。その最大の収穫は、お父さんが信頼に足る方であることを知ることでしょう。そして、もし招きに応え、恐れを乗り越え、神に信頼してチャレンジするなら、たとえどんな小さな行為でも、それは永遠にあなたのものになると主は言われます。
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初期のクリスチャンには様々なグループがありましたが、「十字架で辱められて死んだあと神がイエスを復活させた」ことを信じないグループは存在しませんでした。そして1世紀の歴史を調べると、「なぜ教会が誕生したのか」という質問に対して、「イエスの復活によって私たちは存在するようになった」と、全ての初期のクリスチャンは言っています。 しかし一方でイエスの復活を予想して福音書を書いた福音書記者はいませんでした。4つの福音書はどれも、「とんでもないことだとわかっているけど、本当に起きちゃったんだよね」と言っているようです。つまり当時のユダヤの文化脈においては、イエスの復活を巧みに考え出すことは不可能だったということです。 1世紀にキリスト教会が始まったことは事実です。そして復活は、なぜ教会が新しい時代が始まったと信じるようになったかを説明しています。と同時に、なぜイエスの死が不運な出来事ではなく、美しい夢の終焉でもなく、神の救いの御業のクライマックスだと信じるようになったかを説明します。従い復活は確かにあった、そしてその実(フルーツ)がキリスト教会だとNTライトは結論付けています。 逆に復活が無く、キリスト教会が生まれなかったら、人類の歴史はどうなっていたのでしょうか。人権、男女平等、福祉、病院システム、学校制度、これらはすべてキリスト教会がその起源です。つまり、これら全部がない世界がスタンダードとなるわけで、そんなのは想像するだけで恐怖です。復活があってよかった!と改めて思います。
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最後の晩餐は、世にも不思議な食事会でした。それは参加した者が、誰もイエスのことを分かっていなかったということ。かつそれ以上に自分のことも彼らは分かっていませんでした。しかしイエスは、どの弟子にも分け隔てなく、パンとぶどう酒を分け与えられました。それが今の聖餐式の原型です。パンは「私があなたのいのちを生かす」というしるしであり、ぶどう酒は「あなたを新しくする契約がここにある」という意味でした。 イエスは、このあと弟子たちが自分を捨てて逃げることを知っていました。そんなイエスの最後の晩餐における思いは、イエスの語った「しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈りました」という言葉に込められています。この祈りがあるから僕らは、困難の中に在っても立ち直れるのです。この祈りがあるからこそ信仰を保てるし、この祈りがあるからこそ、兄弟姉妹たちと祈り合い励まし合うことができるのです。 極めつけは、イエスが十字架上で祈られた「父よ、彼らをおゆるし下さい。彼らは自分で何をしているのかわからないのですから」の祈りでした。この言葉を聞いた者は皆、この方こそ自分たちを救う大祭司であるということを知ったのではないでしょうか。この祈りがあってこそ、僕らの祈りは祈りとなり、この祈りがあってこそ、その祈りがイエスによって取り次がれて、父なる神のみもとに届けられるのです。
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